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総集編「独居老人のひとり言」

2019年06月01日

 総集編「独居老人のひとり言」

序章 中学卒

私は中学しか出ていない。特に勉強が嫌いな訳ではなかった。強いて言えば、私はどっちかというと勉強が出来る方だった。

私には3つ上の姉がいるが、この姉は私など問題にならないくらい勉強が良く出来た。私の記憶にある姉は、家の農業を手伝っている時か、炊事や掃除をしている時以外はいつも勉強していた。

私が小学校の4年生の夏の時のことだから、今から60年近くも前のことになる。当時、私の家の裏庭にはぶどうの木があり、薄緑のぶどうがたわわに実っていた。姉はその裏庭に小さな机を向けて勉強していた。私は悪戯心でそっと姉に近寄り、「わっ!」と大きな声で驚かした。勉強に集中していた姉は、烈火のごとく私を怒った。

いつも勉強している姉だから、通信簿には5の数字ばかりが並んでいた。姉が中学3年のとき、世間では正月の気分もやっと抜け出したと思われる頃、姉の担任の教師が家にやって来た。土間の板の間に腰を降ろし、教師と父親は何やら話し合っていた。姉と私は、畳の部屋で二人の話を聞いていた。母は話には加わらず、静かにことの成り行きを見守っていた。

小学生の私にも、話の内容は理解できた。教師の話しを要約すると、姉がこんなに成績が良いのに高校に進学しないのはもったいない。ぜひ、高校に行かせて欲しいというようなことだった。教師も私の家が貧乏なのを知っているので、奨学金の話しも熱心に説いた。

昭和30年代の田舎の農家はどこの家も貧しく、男も女も中学だけで就職する者が大半だった。まして女は、無理してまでも高校に行かせることは無いというような封建時代の風潮がまだ残っていた。

担任の教師が奨学金の話までし、何とか高校へ行かせて欲しいと熱心に説いたにも拘らず、両親は姉に就職を強要したのであった。姉の話しを聞いた担任の教師は、2度3度と家にやって来たが、父親は苦虫を潰したような顔をし、教師に頭を下げて、感謝の言葉と意に添えない不甲斐なさを詫びていた。

貧乏とは、辛いものである。この頃だったと思うが、中学生の姉と私が同じ日に音楽の授業があった。私のクラスの者はハーモニカを持参するよう、担任の先生から言われていた。当日、家に一つしかないハーモニカを引き出しから持って学校に行こうとしたが、姉に取り上げられた。学年トップの成績優秀の姉が、やはり使う筈のハーモニカを持たずに、音楽の授業に出ることは所詮無理な相談だった。私は、大きな声で泣いたのを覚えている。

姉についての結論を言うと、姉は家の状況を理解していたので、涙を飲んだ。いや正しくは、初めから諦めていたのである。

ここまでの話で、私が何故中学しか出ていないのかおおよそ理解して頂けることと思う。もちろん奨学金のことは、姉の中学の担任の先生の話を覚えていたので知ってはいた。けれども、貧乏という匂いは、ハーモニカの件だけでなく、意識と体に染み込んでしまっていて、姉と同じように諦めていた。でも、多少負けず嫌いの私は、クラスで3番から5番位の間でそれなりの成績は残していた。確かに、この頃になるとどこの家の生活も少し良くなり、進学するものも大分増えては来てはいたが。 

第1章 妻との結婚そして死別

私は、近くに新しくできたゴム製品の製造工場の工員となって働くことにした。父親の勧めでもあった。姉の時とは違い私の成績からして、特に担任の教師が家に来て進学を勧めるようなことは無かった。

私は中学卒という学歴を特に恥ずかしいと思うようなことは無かった。何故なら、周りは皆同じような人たちばかりだったからだ。日勤と夜勤の交代勤務も、10代の若い自分はたいして苦にもならなかった。ただ、朝の自転車での通勤時に、中学の時の同級生が制服を着てさっそうとバス停に向かう姿に出来わすときは、何故か下を向いて通り過ぎた。

働き始めて5~6年たった頃だと思うが、今は亡くなった二つ年下の妻と職場で知り合い、2年付き合ってから結婚した。二人とも若すぎたが、双方の親も許してくれた。妻は、私が夜勤の時はいつも美味しい弁当を作ってくれた。とても幸せだった。家を持とうねと二人で決意し頑張って働いた。

その甲斐あって、それから8年後に小さな建売住宅を購入した。60坪の土地と27坪の家は、二人の愛の住処となった。建売住宅は田舎のことなので思ったよりも安く、その家のローンの支払いも二人で働けば十分楽に返せた。子供は家を購入した翌年に、男の子が生まれた。この時代には珍しく、工場の責任者は6ヶ月の育児休業を許してくれた。この頃の私は、多分妻も同じだと思うが、幸せの絶頂だったと思う。私は、妻を愛していたし、子どもの育児にも真剣に関わった。妻の母親も、妻が働きだすと保育園の送迎など積極的に応援してくれた。

お気付きだと思うが、私はもうすぐ古希を迎える高齢者である。私が愛した妻は、私が還暦を迎える年、もう直ぐ定年退職という頃に病で亡くなった。癌であった。

私が言うのも変だけれど、妻はとても頭の良い人で、中卒にも拘わらず工場の事務職に抜擢された程だった。家では、忙しい仕事や家事の合間にはいつも本を読んでいた。

私には、医学のことは分からない。妻が、食欲がないと妙に瘠せ始めてから、近くの医院に行って何かの薬を貰ってきた。しかし服用しても一向に改善せず、それから1ヶ月も経った頃、バスで国立の病院に行き診察を受けた。その日は、検査の予約をしただけとのこと。私は、何かとても嫌な予感がしたのを覚えている。

数回の検査が済んで何日かたった土曜日の夕方、突然居間の電話のベルが鳴った。妻の担当医からの電話だった。妻は、2階の部屋で本を読んでいた。担当医は、妻がこの時間帯はいつも2階で読書をしていることを聞き出していたので、初めから私が電話口に出ることを予想していた。何日の何時に病院に来て欲しいということだった。検査の結果を詳しく説明したいとのこと。妻にはまだこのことは知らせないで欲しいという。メモを取り、電話を切った途端に眩暈がした。

それからのことは、私にはあまり記憶がない。担当医の説明にも、癌についての何の知識も持ち合わせていない自分は、ただ緊張しながら「先生にすべてをお任せします。何卒よろしくお願いいだします。」と、茨城弁の抑揚で下を向いて話すことしかできなかった。医師の説明も、帰りの車の中では殆ど覚えてはいなかった。ただ、妻の明子の今後の行く末に、暗雲が立ち込めていることは確かのようだった。

手術の前日、息子夫婦が遠い四国から飛行機で帰り、私の車で一緒に病院に向った。息子夫婦には、前もって病名を知らせておいたせいか、とても不安げだった。しかし、妻にはあくまでも秘密と固く約束した。3人でため息とも取れる小さな声を発した。

病室の妻は、ニコニコとしており、とても手術を明日に控えた者とは思えない姿だった。妻は、もともと私よりも人としての器が大きかった。そのお蔭で、どれだけ救われたか計り知れない。翌日の手術室に向う時も、笑顔で私たちに手を振った。

手術後いったん回復したかのように見えたが、半年後にまた体調を崩し、再入院となった。主治医の話しだと、癌は取りきれた筈だったが、目に見えない小さながん細胞が妻の体の中を駆け巡ったらしい。抗がん剤・放射線療法とその治療のせいか、髪の毛が抜け、頬はこけて、日に日に妻の体はやせ細って行った。私は、自分の体と取り換えることが出来たらと、何度家に帰ってから涙を流し続けたか知れない。

妻はやせ細って、次第に意識が遠のく状況を繰り返しながら、2ヶ月後に亡くなった。妻は、まだ意識がはっきりしているうちにと、私を枕元に手招きし、やっと聞き取れるくらいの小さな声で、私の耳にささやいた。

「お父さん、今までありがとうね。お父さんと一緒になれて幸せだった。結婚して本当に良かったと思っている。後悔したことなんか、一度も無かった。もし、私が死んでも長生きしてね。幸喜たち夫婦は田舎に呼ばないで、自由にさせて欲しい。ただ、お父さんが一人でご飯を作ったり、洗濯したり、ちゃんと出来るかそれが一番心配・・・。私の分まで、長生きしてね・・・。本当にありがとう!」

そこまで言うと、疲れたのか小さく深呼吸をし、微笑んだ。もう、思い残すことは無いというふうな、安ど感に満ちた表情をして、私の手を握った。妻の指は白く細かった。

第2章 一人になって

妻が亡くなり、私は一人で生活することになった。新しい仏壇には、庭や散歩の途中の畦道に生えた草花などをまめに飾った。私は、夫婦の死についてなど考えたこともなかった。平均寿命といわれる80歳ころまでは、二人で楽しく生き続けられるものと信じていた。

妻は、「重要書類」と赤い字で張り紙した箱の中に、生命保険証書や預金通帳と印鑑そして年金手帳、また家の権利書などを、私がいつも使う本棚の引き出しに入れて置いてくれた。そのため、葬儀費用やその他の出費も、息子夫婦に迷惑をかけることは何もなかった。

しばらくは、妻の生前の笑顔や台所に立つ姿を思い出しては瞼を濡らしていた。こんな筈ではなかったと、何度も繰り返しつぶやいた。どちらかが死ぬという事態があった場合、もし選択権があるならば、私は迷わず自分が死を選ぶ自信があった。

昔、息子の幸喜が幼稚園から小学生の頃、よく喘息の発作を起こした。決まって夜中だった。掛かり付けの病院に電話して、救急外来に向う途中、いつも同じことを考えた。

この幸喜がもし病気で死ぬようなことになったら、そして神様が私の命と引き換えに息子の命を助けてあげてもいいよと言ってくれたなら、私は躊躇せずに、少しも恐れずに死を選ぶことが出来るだろう。もし、将来不良になったとしても、生きていてくれた方がどれだけ嬉しいだろう。

幸喜の喘息が収まるようになった頃まで、同じ思いを繰り返した。

私は、60歳の定年退職後から年金が貰えた。45年という歳月を会社に捧げたのだったが、年金の額は私一人でも贅沢は許されないほどで落胆せざるを得なかった。妻が生きていれば、年金生活も楽に生きて行ける筈だった。スーパーでの買い物も、生鮮食料品の金額を表示したラベルを張り替える時間に合わせ、遅らせて行くというようなことは考えもしなかったと思う。

年金制度というものは、今まで会社のために頑張って働いてきたのだから、これからの人生はお金のことは心配しないで、楽しい余生を送って下さいと国から頂けるものと安易に考えていた。現役当時に社会保険料を給料天引きだったことは知っていたので、もちろん預金が帰ってきたものだとも言えるとも思ってはいた。

とにかく、これから大きな病気をしたり、郁々は老人施設への入所することになるのかななどと考えると頭が痛くなるので、最近は考えないことにしている。

何度も言うが私は心から妻を愛していた。いや、今でも愛している。最近は、夜が怖いのである。いつも隣で軽い寝息が聞こえていた部屋の中は、私の息づかいの他は、何の音もせず静かすぎるのである。いつも妻の寝ていた枕の辺りに目をやり涙を流す、その繰り返しであった。

第3章 息子夫婦からの贈り物    

妻が亡くなり2ヶ月が過ぎた頃だったと思う。不意に家の前に宅配の車が止まり、運転手が降りてきた。運転手は、小さな段ボールの箱を差しだしサインを求めた。早速、仏壇の前に座り、差出人の名前を捜した。それは息子の嫁の由美子からの物であった。開けてみるとカメラのようであった。

カメラには違いないが、どうも昔のカメラとは勝手が違っていた。説明書を見てみたがどうも分かり難く、その日はそのまま箱に仕舞い込んだ。翌日、近くに住む同級生の橋本の家を訪れた。橋本は、昔から写真に凝っていて有名だった。今は地区の区長をしている。

「隆明ちゃん、これはデジタルカメラと言って、昔のカメラのようにフィルムは使わないで、その代わりにSDカードという物を入れて撮影するものだよ。何回でも消したり出来るから、フィルムのように買い直す必要がないからお金が掛からないよ。写したカードを写真屋さんに持って行けば昔と同じように、何枚でも作ってくれるよ。」

橋本は詳しく説明してくれて、どうせならパソコンと連動させた方が楽しいと積極的にパソコンの導入を勧めてくれた。私はパソコンという物について全く知識を持っていなかった。ただ、パソコンを使いこなす友人がとても輝いて見えまた羨ましく、自分もそうなりたいと強く思った。

橋本の話しだと、市の無料パソコン教室があり、今が募集中だという。パソコンという言葉はとても響きが良く、何か憧れのようなものを感じ、さっそく申し込むことにした。市の無料パソコン教室は月に2回あり、6ヶ月コースとのことだった。

パソコン教室には、私と同じくらいの60歳を超えたと思われる人も数人混じっていた。何度聴いても覚えられず、もう止めようかと何度も思った。しかし、私だけではなく、他の定年を迎えたと思われる人たちも覚えられないと休憩中に愚痴をこぼした。このパソコン教室は続けながら、数名の人達で独自に勉強会をやろうと誰からとなく話がまとまり、毎週水曜日に近くの公民館に集まることとなった。もちろん私も仲間に加わった。

数日の後、友人の橋本に同伴してもらい、大型の電気店に向った。もちろんパソコンの購入が目的である。値段・性能・画面の大きさなど橋本は細かく説明してくれ、店員に値段の割引交渉までしてくれた。

細かいセットアップなどは、みな橋本が設定してくれたので、後は実際に文章を書いたり、表を作ったりするのは少しずつ覚えることにした。もちろん、デジカメで撮った写真の扱い方も少しずつで良いと考えた。

最近は、台所での大根を切る音もリズミカルになり、それだけ一人暮らしに慣れたということなのか?台所には玉ねぎやジャガイモの箱があり、冷蔵庫の中には冷凍食品がたくさん入っている。買い物は3日に1回程度、卵や野菜など買い溜めできないものをスーパーへ買いに行く程度である。

息子の嫁が送ってくれた1台のデジカメが、私の生活を大きく変えた。妻への哀惜の念からひと時も離れられず、半ばうつ病のように涙もろく虚ろな毎日から、大分前向きに生きることが出来るようになった。

パソコン教室で学んでいる時、そしてその中から生まれたパソコン仲間との勉強会の時間、少なくともその時だけは妻を忘れられた。生きていて楽しいと感じられたひと時であった。

息子夫婦は、私のことをすべて見抜いていたのだろうか?デジカメ1台で、私を救うことが出来ると本当に思っていたのだろうか?

息子夫婦がどう思おうと私が変わったのは事実だし、わざわざ送った理由を尋ねたいとは思わなかった。

第4章 パソコン仲間の気になる女性

妻が亡くなり、早や2年が過ぎた。私は62歳の誕生日を迎えようとしていたが、相変わらず、私はパソコン仲間と公民館での勉強会を続けていた。私のパソコンの腕も上がり、今ではブログも開設している。自分でも信じられない程の進歩である。このことでは、息子夫婦・同級生の橋本、そしてパソコンの勉強会の仲間に心から感謝している。

私は毎日、朝と晩に妻の仏壇に手を合わる。夜は作ったばかりのおかずを供えながら、その日の出来事やパソコンの上達ぶりを報告した。

私のブログ名は、「独居老人のひとり言」である。もちろん、ブログ開設時には同級生の橋本の力を借りた。そして、始めた当時は、文章を見て貰ったり画像の挿入の方法を教わったりした。しかし、今はそのお蔭で何でも自分でできる。

ブログの主な内容は、季節の移り変わりをデジカメで撮り、それにコメントを加えたものである。最近は、けっこうブログ仲間が増えて来て、返信を出すのが一苦労という状態だ。少しは疲れるけれど、充実した時間でもある。

パソコン仲間も人数が増えて、約10人前後の人が勉強会に訪れるようになった。仲間の紹介であれば誰でも参加できるのである。当初は、僅か3人でスタートした勉強会だったのだけれど。

女性も何人か含まれていた。いつも参加する女性は3名で、いずれも連れ合いを失くした高齢者ばかりだった。私もパソコンに精通するようになると、新しく入った初心者に何かと指導する機会が増えたのは当然だった。

初めからのメンバーで次回の勉強内容を決め、講師役を持ち回りで行った。なので、3回に1度は講師役となる。私が講師役の時に、正確には平成23年の5月半ば、新しく勉強会に入った女性がいた。50代後半の垢抜けた感じの、そして聡明そうな女性だった。正直に言えば、亡くなった妻に似ていると感じたのが第1印象で、私にはとても気になる女性となった。

しかし、私はいまだに妻を愛している。何年経とうが私の妻に対する愛が色あせることは無い。私には、自信がある。例え十三回忌を迎えようが、妻への愛はこのまま変わることはない。

ある日、妻に似たその女性が参加したパソコンの勉強会の時、私が他の初心者の女性に対する態度とは異なり、接する頻度が多いように自分で気付いた時には、少なからずショックを受けた。

この女性は仕事を持っているらしく、いつも参加する訳ではなかった。職場の仲間が急に用事が出来たときなど、代わり出勤することも度々あるらしい。女性同士で話しているのを何気なく聞いた私の心に、小さな波風が立っていた。

妻の仏壇の前で、必ずその日の出来事や思ったことを話しかけるのが私の日課だったが、最近の私は妻にすべて心の内を読まれているかのような気がし、両手を合わせている時間が確かに短くなった。私に、何の負い目があるというのだろうか?

第5章 退職金の目減り

妻が亡くなり既に3回忌も済んだ。私の一人暮らしも、もはや日常となった。妻と結婚後8年で購入したこの家も既に30数年の月日が流れ、台風で瓦が何枚か落ちたり、壁紙も大分変色したりと、本来はリフォームをすべき時期に来ていた。

私が45年間勤務した会社を定年退職した折、おおよそ1,500万円の退職金を貰った。そのお金は、長男の幸喜夫婦がこの家に住む為のリフォーム代か、或いはよその土地に家を購入しようとした時、その費用の一部に使わせるつもりでいる。

妻が生きていた時は家計費の管理は、妻に全てを任せていた。妻は私より、はるかにしっかりとしていて賢明だった。今、私は家計簿を付けている。しかし、贅沢はしていない筈にも拘わらず、年金だけでは生活費が補えず、預金を取り崩していることに気付いた。妻との別れのその悲しみで、何も考えられなかったが、このままでは退職金に手を付ける日が来ることが予想された。

固定資産税・国民健康保険料・県民税・市民税など、僅かな年金生活者にも容赦はない。私の家計簿の中で出費が大きいのは、上にあげた税金の他では第一に電気代、次に車のガソリン代や灯油代などだ。スマートフォンの出費も大きい。家のローンはないが、車のローンが残っている。食費の出費が多いのは止むを得ないと思っている。

私は昔、高級車に憧れた時期がある。妻に優しく諭されて実現しなかったが、その気持ちは今でも同じである。最近、街にはハイブリッド車が大分増えたが、私には縁のない話だ。やっと1800ccの中古車に乗っている。新車を買う余裕などある筈もなく、新車登録時から換算して11年も経つ車を、数年前に車検付きで56万円で購入した。通帳の預金を担保にして、利子の付くローンでの購入だ。妻なら、預金をおろし現金で買ったかも知れない。貧しいものは、手元の現金を手放すのが欲しい。キャンプや県外での撮影に利用するためバンタイプのものを選んだ。

私がスマートフォンを持っている訳は、通常の携帯電話としての機能以外は、ラインでの仲間との打合せ、また息子からの2歳になる孫娘の画像の受信、個人的には百科事典の代わりとして、またナビとして、特にネットでの情報収集には欠かせない。便利に使っているので、高額なのは止むを得ないと観念している。私にはなくてはならない物で、貧乏な年休受給者には相応しくないと非難される謂れはない。

5月になると自動車税の納税通知が来る。昨年はその書類を見て驚いた。何と、古い車だからと税が可算されているのだ。誰だって新車の高級車を乗りたい。出来ればハイブリッド車がいい。この前ガソリンを入れたのは何時だったかと、記憶を辿る真似がしてみたい。車を取り換えられない低所得の年金受給者に、どうして税金を加算するのか?

パソコン教室と、仲間のパソコン勉強会に参加するようになってから、生きる意欲が出てきた私は、生活費をどう立て直すかを考えた。節約も重要な方法ではあるけれど、何か侘びしい。心に余裕を持って生きるには、守るのではなく攻めでなければ、内に閉じこもった小さな人間になってしまう。

私は働く決心をした。

第6章 還暦後の就活

私は決して新聞を読むことも読書をすることも嫌いではないが、余りに世間の現実的な事には疎かった。

60才時から私が貰っていたのは、老齢厚生年金と言われるものらしく、65歳にならなければ年金の満額支給は受け取れないということを知ったのは先日だった。パソコンの勉強会の仲間との世間話から初めて知った。私が65歳になれば、今よりずっと支給額が増えるらしい。

妻が生きていればもっと早く知っていたに違いない。妻は年金の仕組みを知識として持っていたかも知れないし、そうでなければ定年時に即座に調べてくれただろうと思う。

とにかく、現実的にその老齢厚生年金とやらでは生活していけない以上、65才になるまで預金を取り崩していき、それでも足りなければ退職金に手を付けなければならない。退職金の使途が決まっている以上、私には働く以外、今の生活を維持していく方法がないということを遅ればせながら知った。

私はさっそくハローワークに出向いた。受付で必要事項を記入し、番号札を貰って、30台くらいある求人募集の見られるパソコンの順番を待った。使い方は、パソコンに慣れた私には簡単だった。

私にも出来そうな仕事をいくつか選んでコピーを取ると、就職を斡旋してくれる係の男性に呼ばれた。白髪が目立つ初老のその男性は、柔和な表情を浮かべて、私のコピーした用紙を受け取った。

私が初めてハローワークに来たことを知ると、採用条件に年齢不問とは書いてはあっても、実際はある程度の年齢層を見込んでいるらしいと教えてくれた。私が渡したコピーに書いてある会社の内容を見ながら、採用担当者に電話を掛けてくれた。採用担当者は、私の年齢を聞くとやんわりと何らかの理由を付けて断っていたようだった。私の選んだ会社はすべて断られた。

私は中卒の還暦を過ぎた老人だ。そう簡単に私を採用してくれる会社はみつかる筈はなかった。私でさえも同じ賃金を支払うなら、覚えが早く、機敏で尚且つ永く働いてくれる、少しでも若い力を求めるのが当然と思った。

私は、今現在置かれている自分の状況を初めて知った。

第7章 派遣労働者となって

私は、もちろんハローワークを度々訪問したが、面接まで行くこともなく、新聞の折り込み広告にも目を通した。学歴不問と年齢を考慮して探すと、おのずと職種は絞られてしまっていた。例えば、清掃員・警備員・介護関係等が主だった。そしてそれらの求人元は、殆どが派遣会社ばかりだった。

それでもやっと、ある工場で働くことになった。もちろん派遣での採用だった。仕事の内容は、ある大手の住宅会社の下請けで窓の組み立て作業だった。派遣会社の担当者に連れられ現場を見に行ったが、採用してくれるというので働くことにした。工場では、20代から私よりもずっと年上らしい男女まで働いていた。賃金は熟練者も、まだ入りたての者も皆同じとのことだった。

私は、頑張って働いた。時給がいくらとか考えたことはなかった。こんな安い時給では、モチベーションが湧かないと若い者同士が、休憩時間に話していた。1週間が経ち私も随分仕事に慣れた。仕事が随分早くなったと、自分を褒めた。

次の週のことである。私がいつものように脇目も振らずに作業に夢中だった時、その班の責任者らしきまだ30代前半の男が、いきなり私に声をかけた。何事かと電源を落として顔を向けるとこう言った。

「小松さん、もうこの仕事に就いて1週間になるんだから、今の倍の量の仕事をしてくれないと困るよ!」

この会社では「トヨタ方式」とかを採用しており、毎日の仕事量と進捗状況が一目瞭然に示されていた。私は頑張れば5割増し位までなら何とかなると思ったけれど、2倍の仕事量の自信はなかった。

当日仕事が終わってから、派遣会社の担当者に腰を痛めたので辞めたいと連絡した。その後、やはり派遣会社の面接を受けて、いくつかの会社で働いたが、永くは続かなかった。殆ど事前の教育などなくて、いきなり現場に行かされた。ある工場では、作業着に着替えた途端ラインに立たされた。

頑張る気持ちはあったけれど、どこでも永くは続かなかった。

第8章 無職となって

ここしばらく、毎週水曜日のパソコン教室も参加していなかった。もちろん初めから関わった講師役の二人には事情を話し、また落ち着いてから参加するということで快諾を得ていた。

最近の私は落ち込んでいる。行こうとすれば、水曜日の勉強会も参加できる状態にあった。時間を持て余してさえいるのだから。一人で家の中にずっといることは辛かった。というより世の中から、自分の存在の必要性を否定されたような、暗澹たる思いで打ちのめされていた。こうした気持ちのまま、どうしてパソコン勉強会の仲間に会えるだろうか?

そういえば、妻に何となく雰囲気の良く似たあの50代後半の女性は、まだ参加しているのだろうか?最近は勉強会で会うこともないので、仏壇の妻にはなにも恥ずかしがることはなく、最近の派遣労働についての愚痴を聴いて貰っている。

妻が私に仏壇の向こう側から、言いたいことは分かっている。これ位のことで弱音を吐くのは男らしくない。もっと悲惨な状況の中でさえ逞しく生きている人々はごまんといるのだから、もう少し強い気持ちを持って生きて欲しい。

「労働者派遣法」なる法律が、今の日本を、今の老若男女の労働者を貧しくしているという話しを、幾つか行った派遣先の若者や中高年者が良く話していた。中卒という学歴を隠れ蓑にして逃げるわけではないけれど、今まで派遣労働という言葉は知ってはいたが、この法律の内容については全く知識がない。

私は派遣労働者なる人々とは、殆ど交差点ですれ違った程度の会話しかしていないが、生活状況は派遣社員の専用駐車場をみればある程度分かる。まず、殆どが660㏄の軽自動車ばかりだ。それも年式が古い車ばかり。

休憩時に話す内容は、生活に余裕のある者には多分理解できないだろう。ある50代の派遣社員は、鍋にインスタントラーメンを2つと卵を入れて、鍋から直接食べる時が至福の時間だという。

何年頑張って熟練者になろうとも、私のように昨日今日入った者でも同じ時給というのでは、確かにモチベーションも上がらないだろう。世代や男女関係なく、月22日働いたとしても、税引き後の手取りは13~15万円。ボーナスは無く、祝日が増えるのを決して歓迎することは無い。収入が減るだけだ。

若い人は、家賃やスマホの支払いや若干の娯楽費を引くと、食べて行くだけで精一杯だ。結婚や持ち家など、夢の夢。高級車に乗りたい者は、10数年も前の中古車を買い、自動車税やガソリン代に悲鳴を上げて1年も持たずに手放すことになる。

私は、何を言いたいのだろうか?ここまで書いてきて、派遣労働者の人たちが生活に追われ辛い状況であることは、メディアを通じて、あるいは身近な人を通して、私でなくとも大勢の人たちは知っている。今更、書く必要があるのか。

私も同じようなものだ。私はお酒が大好きだ。アルコール依存症かと自分でも思う位だが、年1回の市の検診でのγ-GTPの数値は正常値である。数日禁酒をしてから健康診断に臨む友人がいるが、私は前の晩も普通に晩酌をする。

スーパーにお酒を買い物に行くと、まず冷蔵庫の中の包装紙で包まれた日本酒の棚の前は通り過ぎる。その先の、紙パックのコーナーから物色する。酒の知識がある訳ではないが、1,8リットル入りで1,000円未満の安い酒は、それなりの製造方法があるらしい。以前何かで読んだ覚えがあるが、詳しいことは忘れた。でも、私はやはり1,000円未満の酒を選んだ。

良く刺身売り場を覗いたりするが、たまにマグロのぶつ切りを買う。いくつかの種類が混じった盛り合わせなど、金額を見てためらってしまう。

衣類にしてもそうだ。気に入ったシャツやセーターを手にとっても、値段を見て諦めることが多い。安いものは長持ちしないのは知っている。一度洗濯をすると伸びてしまったり、逆に縮んでしまったりする。それでも、やはり買ってしまう。

近くには100円ショップがある。これは助かる。ついつい要らないものまで買ってしまうのは、フラストレーションからか?

第9章 平凡な老人の価値

私は体を動かすことが好きだった。妻が生きている頃は、いつも近くの公園の芝生の中を走り廻っていたものだ。数キロ先に、リンリンロ-ドと言って自転車と歩行者しか通れない片道40キロのサイクリングコースがあるが、50代の頃の私は平気で往復が出来た。63歳の現在の私は、落ち込んでいてそうした気力が無い。

妻と二人で頑張って、子供を育て上げた。その息子も嫁を貰い子宝にも恵まれた。親としての役目は終わったと思っている。この先、何の楽しみがあるのだろうか?鏡を見ると、顔の黒いしみは年を経るごとに増えていく。白髪も増え頭頂部は透けている。二の腕の皮膚にも、蛇の抜け殻のような皺がある。何処から見ても私は老人であることを認めざるを得ない。

前にも書いたが、家に一日いるということは本当に辛い。世間と隔離した、無用な老人・・・。最近はパソコン仲間ともご無沙汰しているので、言葉を発する時と言えば、仏壇の妻に話しかける程度である。

新聞の2頁辺りに良く新社長の紹介記事が載る。もちろん若いエネルギーと斬新な経営戦略を期待された若い新社長が多いのも事実だ。しかし、既に古希を過ぎたような老人の新社長も時々就任することがある。私はこうした高齢の新社長が羨ましくてならない。もちろん、相当な期待と責任を背負った地位は、私なら3ヶ月も持たないで、平に戻して欲しいと懇願する姿が眼に浮かぶ。

だが、世間に注目されつつ、大きな組織の中で自分の人生の最終章まで演じきれるというその生き方が、私にはたまらなく羨ましい。その羨ましさの中には、生涯お金に困ることなどないだろうという嫉妬心も内包している。

貧乏な家に生れながらも、大成した人は多いかも知れない。しかし、私はどうしても、貧困の連鎖は確かにあると考えてしまう。私よりも中学時代成績の悪かった友人が、十数年ぶりで逢うと医師になっていた。もちろん本人の大きな努力の賜物だろうが、貧しい家庭に育ったら初めから医師になろうと考えただろうか?

こう書いていて、悍ましい自分に呆れている。何とひねくれた考え方だろう。自分の貧しさを、親のせいにしている。それなら貧しかった父も母も、明治生まれの両親のせいにするだろう。貧困の連鎖は、どこかで断ち切らなくてはならない。遥か昔に、「貧乏人は麦飯を食え!」と言った総理大臣がいた。しかし、その後日本の経済は飛躍的に向上した。貧困の連鎖の終焉は、個人の力では限界があり、それはやはり政治の力が重要なのかも知れない。

ところで、私のような、特化した知力も財産もない人間は、どう老後を生きれば良いのだろうか?生きる意味などあるのだろうか?こんな私でも息子たちには必要かも知れないが、私自身の生きる意味とは何なのか?私には思い浮かぶ言葉が見つからない。老後に、決して明るい見方が出来ないのは、ひねくれているのか、あまのじゃくなのか、それとも単なる怠け者なのか?

第10章 老人の淡い恋心

日曜日の夕方、パソコン仲間の友人から電話が入り、働いているのかと聞かれ、派遣の仕事を辞めたばかりだと話すと、来週から出て来て欲しいという。何でも新しく入った仲間が数人おり、指導する手が足りないらしい。私も、家にいるのが辛く、喜んで誘いに乗った。

早速、水曜日のパソコン勉強会に行った。しばらく振りなので、少し緊張して行ったのだが、みんな歓迎してくれた。来て良かったと安堵した。全員の顔を見渡すと、妻に似た50代の女性も笑顔で会釈をしてくれた。

今回は、エクセルで家計簿の支出の割合を円グラフで作っていた。講師役の友人が、全員の表情を観察しながら、上手に進めていた。私も、仲間の間を回り、遅れていないか、間違えていないかを確認して歩いた。例の50代の女性の机の傍の床にハンカチが落ちていた。一生懸命で気付かなかったらしい。拾い上げて渡す時に良い香りがした。女性は軽く頭を下げて微笑んだ。

パソコン勉強会の時間は、午後2時から4時までと決めてあるが、時によってはずれ込んだりすることもある。終ったあとは全員で戸締りをしてから別れる。

私は例によって、型式の古い車に乗っている。この日はあいにく先程の女性の車が車検に出してあり、このパソコン教室の別の女性にわざわざ遠まわりをして乗せて来て貰って来たらしい。今日講師役を務めた仲間が、私に言った。

「小松さん、大変済みませんが、大川さんを送って頂けませんか?この中では、小松さんが一番大川さんの家に近いものですから。」

私は、「はい、喜んで。」と彼女に向って言った。彼女の姓が大川であるということを、今初めて知った。彼女の道案内でおよそ10分位で着いた。車の中で話が弾んだ訳ではないが、彼女の現在の様子を少し知ることが出来た。彼女は言葉を選びながら、とても丁寧な話し方をする女性だった。容姿も十人並み以上の、賢明そうな感じがした。

結婚相手と離婚したのか、死別したのかは分からないが、30代の息子と二人暮らしとのことだった。事情があり、少し前に早期の定年退職をし、今は週4日のパートをしているとのことだった。彼女の家に着き車から降りると、彼女は深々とお辞儀をし礼を言った。私は「今度またこうした事情があるときは、連絡くだされば迎えに来ますよ」と、彼女の顔を見ながら笑顔で言った。

すると彼女はカバンから携帯電話を取り出し、私の電話番号を教えてと言う。私が番号を言うと、携帯にその番号を打ち込み始め、私の携帯の呼び出し音が鳴ると直ぐに電話を切った。笑顔で、登録させて頂きますと言った。

家に着くと、何故か落ち着かなかった。いくらパソコン仲間と言いながら、こうも簡単に携帯の番号を教えてくれるものなのか?私は妻以外の女性と携帯電話で話したことがあるのは、同じパソコン勉強会の女性への要件があるときのみであった。家に着き、車庫の中で彼女の携帯番号を登録したが、胸が高鳴った。

第11章 偶然の出会い

無職の私は、相変わらず預金を取り崩しながら生きている。節約をしようと思えば、多少生活費を切り詰めることは出来るだろうと思う。冷暖房費等の電気代やガソリン代、また食費も少しは切り詰めることが出来そうだ。

話しは逸れてしまうが、私が派遣の仕事をしていた数ヶ所の職場で見た、少し驚いた昼食代他の節約法を幾つか紹介させて頂く。

○40代女性 独身  昼の弁当は季節に関係なくうどん。大量に茹でて小分けしてラップに包んで冷凍保存。つけ麺的な食べ方で、昨夜の残り物の僅かな副食での昼食。米の弁当より節約できるという。

○40代男性 独身  築数十年の戸建アパートで独り暮らし。下水が完備されておらず、毎朝近くのコンビニのトイレにて用を足す。風呂は殆ど入らない。顔が光っていた。

○30代男性 独身  お昼は弁当を持参。おかずは毎日同じ1品だけで、ご飯の上に乗せてある。天麩羅のようだが、自分で作った物で、作り置きして冷凍庫で保存しているらしい。別の職場でも、全く同じような弁当の男性がいた。

○30代男性 独身 昼食はスーパーで買ったカップ麺におにぎりかパン一つ。大盛りのカップ焼きそばの時はおにぎりなし。カップ麺等はスーパーでの特売日に買いだめしておくとのこと。

昼食のことが多くなってしまったが、当然のことながら朝食と夕食時はお互い別で知る由もない。上記の人は皆独身である。当然、食事代は節約できそうだが、健康にはあまり好ましくないような気がする。

私も食事代を見直す必要があると感じている。スーパーで買い出しをして自分で作ることもあるが、どうしても面倒になってしまうことが多い。最近は、スーパーでの出来合いの総菜を値段が下がる時間を見計らって買いに行くことが多くなった。また、外食をしてしまうことやコンビニ弁当に頼ってしまうこともある。また、酒代とつまみの費用も考えてみると馬鹿にならない。

余り節約のことばかり考えるとネガティブになり生きる気力が萎えてしまうので、そのうちまた何か職を探すことにして話を先に進めようと思う。

パソコンの勉強会は、毎週水曜日の午後2時から4時までの2時間であるが、途中20分の休憩を取っている。この時間は、誰という訳ではなく持ち寄った茶菓子を食べながら、自動販売機で買ったペットボトルのお茶を飲みながら雑談に花が咲く。もちろん携帯用ポットを持ってくる人もいる。

殆ど還暦を過ぎた人たちばかりなので、健康問題の話題が多い。膝や腰が痛む、僅かな段差につまずく等、話は尽きることがなく20分の休憩時間はあっという間に終わる。

パソコン仲間には、連れ合いを死別や離婚などで失くした人が何人かいる。当然私もその一人である。ある日の休憩時間に、食べ物の話になった。どこの店が安いとか、何時ごろになると値段が下がるとか、皆自慢げに話した。

その時、誰かが私に質問をした。

「小松さんは、自炊しているんでしょ?食料の買い出しはどうしているの?」

私はありのままを話した。基本的には、週3回○○スーパーに行くこと。夜8時頃に行くと惣菜の値段が安くなっているので、出来合いの総菜で済ませることが多くなってきたこと。時々はコンビニ弁当や外食することもあること等。

それから、次の週のことだった。私が、いつものスーパーで8時過ぎに食料品の買い出しに行った時のことである。惣菜売り場で、イカの天ぷらにしようか鯵のフライにしようかと迷っている時、ふと後ろから私を呼ぶ声がした。

「あら、小松さん!今から夕食ですか?」

振り返ると大川さんが、カートにマイバスケットを乗せて立っていた。私は少し恥ずかしそうにうなずいた。大川さんがこのスーパーで、この時間に買い物をするとは知らなかった。

第12章 早期退職の理由

不思議なことに、その後も何度か同じスーパーでやはり同じ時間に大川さんに会うことが続いた。

思い切ってある日尋ねてみた。

「大川さん、良く最近お会いしますね?これから、夕飯ですか?息子さん、もうすっかりお腹を空かしているんじゃないんですか?」

少し意地悪だったかも知れない。今度こそ聞こうと考えていたのだが、私の声は多少上ずっていた。

「そうなんですけど、でも私も家計のやりくりが大変なんです。先日、小松さんから休憩の時間に伺ってから、私もそうしようと決めたんです。息子も、分かってくれて待っていてくれます。」

私は、正直驚いた。この大川さんは、身なりも良いし、とても家計費を切り詰めなければならないような生活臭は微塵も感じられなかった。人は、見た目では何も分からない。特に、私の愚推ほど当てにならないものはない。

二人とも買い物が済み、そのスーパーの駐車場に向う途中、カートを押しながら大川さんが話し出した。

「私、56歳の時、選択定年制で早期退職をしたんです。本当はその会社でずっと、出来れば65才まで勤めていたかったんです。でも、息子が過酷な労働と上司の叱責から、体調を崩し、うつ病になってしまいました。労働組合にも相談し、また公の相談窓口にも足を運びましたが、どうしても会社は労災とは認めてくれず、結局裁判しかないということになりました。

私たちに裁判をするだけのお金に余裕はありませんので、止む無く引き下がりました。無職となった息子は、自分の部屋に入ったままで、外に出ることも避けるようになりました。私は会社の仕事をしていても、息子のことが気がかりで、時々帳簿上の計算ミスをするようになりました。

ちょうどその時、会社は55歳以上を対象とした『早期の選択定年』の募集をしておりましたので、私は応募しました。将来の生活より、その時の息子が心配で、少しでも寄り添っていたかったのです。」

そこまで話すと、大川さんは小さくため息をつき、私に謝罪した。お腹が空いているのに長話をして申し訳ないと、無理に作った笑顔を私に向けた。

「私は大丈夫ですよ。息子さんが待っているでしょうから、今日はこの話は終わりにして、この続きは近いうちにしましょうよ。私でお役に立つことなら、何でも致しますから。」

ここで別れた。人は、明日のことは分からない。人は時として、自分の人生や家族の人生が病や外部の要因により、命の危機に直面したり、また生活状況の大きな後退を余儀なく強いられることがある。そして、そんな瞬間は何の前触れもなく突然やって来る。私は、妻の死で骨身に沁みていた。

第13章 人はいつまで働くべきか

あれは確か平成20年頃だったろうか?日本人の看護師や介護師が不足し、インドネシアやフィリピンの人たちの受け入れを開始したという記事を目にしたのは。外国の人たちから日本人の看護や介護をして頂くことは、とても有難いことだと、私は新聞を読みながら思った。ただ、日本語の漢字が難しく、資格試験の合格率は1割程度だったかと記憶している。

そんな折、ある病院が「准看護師学校」の学生を応募していることを知人から聞いた。「准看護学校」という学校があり、病院で助手をしながら「准看護師」の資格を取らせてくれるという話らしい。知人の奥さんがその病院で働いていて、病院の職員があちこちに声を掛けているらしかった。中卒でも可能という。

私は中学を卒業してから、ゴム製品の工場で昼夜交代の仕事で働き尽くめだったこともあり、定年後は別な仕事がしてみたいと考えていた。そのせいもあって、私は、この「准看護師」の資格に大きな興味を覚えた。私が58歳になる少し前のことである。

私はさっそく、その病院に電話をした。電話に出た事務の女の人は、「お孫さんが、お入りになりたいのですね」とだけ言って、私の名前と住所を聞いた。資料をすぐ送ってくれるらしい。

送られた書類に目を通した。妻が笑って「何年も働かないうちに、自分が看護される方にならないでね」と言ったが、反対はしなかった。私は、真剣だった。

准看護学校で2年間勉強をし、「准看護師」の国家試験を受け、合格すると晴れて病院や施設等で働くことが出来るらしい。ただ、やはり経験がないと不安なので、老人施設などで働くには経験を経てからが望ましいと、当たり前の説明まで記載されていた。

58歳の私が2年間勉強して資格が得られるのはちょうど60歳、還暦の年だ。第2の人生をしっかりと生きるつもりだ。履歴書などの書類一式を送ると共に、便箋に思いの丈を記して同封した。

果たして、投函して10日位経ったころに病院から封筒が届いた。工場から帰ると郵便受けに、ここ数日真っ先に走っていた私は、興奮し少し震える指で封筒を開けた。

初めに応募への感謝のことばが記してあり、希望に添えず申し訳ないという内容で、あなた様の熱意は確かに届きましたと付け加えられていた。最後に、より一層のご活躍をお祈り申し上げますと、不採用の通知には欠かせないであろう文字もしたためられていた。

私は真剣だった故に、とても悲しかった。

ちょうどその日、平成20年11月16日(日)某新聞の朝刊に次のような投書が載っていた。「老人の自立促す」というタイトルで、佐世保市の浦川潔さんという76歳からのものだった。

-老人の自立促す-

「我が国は、70歳以上が2800万人を超し、超高齢者社会に突入した。そんな中、4月に始まった後期高齢者医療制度には、不満や反発が根強い。

老人の医療費を減らすのではなく、『私は自立するんだ』という強い精神力を持った老人を増やすような啓発運動が必要だろう。65歳から介護保険制度を利用する権利ができたと考えるようではいけない。

働く意欲と能力のある高齢者が社会の支え手として活躍できるような体制作りが急務だ。そのためには、年齢を基準とせず、働く意欲に応えられる生涯現役社会を作らねばならない。」

私と全く同じことを考えている人がいることを知り、私は優秀な「准看護師」になって見せると、今朝は発奮していたのだった。

人生は思うようにはならない。しかし、こうした声を上げ続けなければ、いつまで経っても何も変わらない。ただ、まだ時期が早いのか?

落ち込んだ私は、定年まで今の工場で働くことを妻に告げたのだった。

第14章 独居老人の孤食の弊害

私は栄養学というものを知らない。

妻が亡くなる数日前に、まだ意識がしっかりしている時に、私に言った言葉を今も忘れない。

「ただ、心配なのはお父さんが一人でご飯を作ったり、洗濯したり、それが一番心配・・・・」

妻が心配したのは、食事に関しては私が妻に頼り切りで、殆ど料理というものをしたことがなかったからだ。妻が亡くなって2ヶ月が経った頃、すっかり落ち込んでいた私に、息子の嫁がデジカメを送ってくれて、パソコンの勉強会に繋がった。その時私は新鮮な学びに、ひと時悲しみから逃れられ、生きる意欲と共に、食べるという行為にも前向きになったものだった。

初めは、炊飯器の使い方も分からず、息子の嫁の由美子に電話して教わった。確か、妻の葬式の後、四国へ帰るという前の日、由美子は台所に私を呼び、一通り自炊の方法についてレクチャーしてくれたような記憶がある。その時は、私は悲しみの真っただ中で、何を聞いても上の空だった。

パソコン教室や勉強会に出るようになってから、確かに大根を切る音もリズミカルになってはいた。しかし、大根は味噌汁の具で、その他の副食は、卵焼きとか納豆・豆腐といった調理とは言えない代物ばかりを繰り返していただけであった。野菜を意識して摂るというようなこともなかった。

そのうち自炊にも飽きてきた。またご飯を1人分だけ炊くというのも、面倒になった。食べ切れずに、捨ててしまうことも度々ある。スーパーの惣菜は便利だった。最近のスーパーは小分けにしてあり、自分で作るよりも手間がかからず、安上がりなような気がする。電子レンジの使い方も、由美子に教わって、とても重宝している。

パソコンの勉強会で大川さんと出会い、スーパーで良く会うようになった頃、息子の嫁の由美子から郵便物が届いた。さっそく開けて見ると、千葉県のホームページから印刷した『高齢者のための季節の献立集』というものだった。最初に以下のような文章が目に入った。

「高齢者の低栄養を予防し、要介護状態への移行の防止や遅延を図り、高齢になっても元気で生き生きと暮らせることを目的に、千葉県と千葉市が共同で作成した献立集です。一人暮らしの男性でも気軽に作れるようなメニューを中心に、バランスのよい食事ができるようレシピ集を作成しました。旬の食材を取り入れた春夏秋冬にあわせたレシピとなっています。」

もちろん高齢者が病気で入院したり、寝たきりになり介護施設に入所したりすると、地方自治体の財政に大きな負担が掛かる。高齢者には元気でいて貰わないと困る訳だが、老人にしても最後まで自分のことは自分でしたい。私は、息子夫婦にも介護施設の世話にもなりたくない。

検索用のタグさえラインで教えてくれればお金は掛からず済んだのに、わざわざコピーを送ってくれたのは、私の健康を気遣ってくれる真心が感じられた。

一人暮らしは、どうしても生活がルーズになる。孤食というのは、やはり寂しい。どうしても同じようなメニューが続き、食べるという行為自体に喜びが感じられなくなってしまう。その結果、食事の回数が減ることになり、一日2回という時もある。昔、子どもが幼い時は、親子3人、朝と夜はいつも同じ時間に食卓を囲んだものだった。あの頃が、たまらなく恋しい。

さっそくメニューを見てみることにした。先ずは、春のメニューである。それは4週分に別れ、7日ごとに朝昼晩の3回分が表になっていた。朝はご飯とみそ汁が多いが、パンの時もある。納豆のような手を加えないおかずもあるが、煮物など殆ど手を加えたものが多い。手を加えるということは、簡単に言えばそれだけ頭を使うということである。痴呆症予防も考慮されているのかと感心してしまった。

季節の物(菜の花・たけのこ・春野菜)も取り入れた、想像しただけでも食欲をそそりそうな献立表だった。また、初めて見るような料理にはちゃんとレシピが用意してあり、私でさえも何とか作れそうな気がした。ただ料理初心者の私には、栄養のバランスを考慮しているためか種類が多く、知らない料理が多いのが少し気になった。

カレンダーに合わせ、先ず2週目10日の夕飯「じゃがいもとキャベツの甘煮」を作ることにしたが、このレシピは載っていない。台所には、しょうゆ・味噌・塩・砂糖・コーン油・コショウ・七味唐辛子程度の調味料はあるが、それだけで作れるものなのか見当がつかない。

私は少し迷ったが、大川さんに相談することにした。電話を掛けると、大川さんは途中言葉を挟まずに最後まで私の話を聞き「今日もいつもの時間にスーパーへ行くので、私で良ければいいですよ」と、明るく答えてくれた。

第15章 初めての献立

その晩、私は息子の嫁から送ってもらった『高齢者のための季節の献立集』を大川さん用に1部コピーをし、少し早目にスーパーに向かった。大川さんがいつも駐車する辺りに車を止めて待った。

少しすると、大川さんの車が近づいて来た。車を降り、マイバスケットとカバンを持ち、私の車に向って歩いてきた。

「ごめんなさい。待ちました?」

私は窓を開けて、今来たばかりですと言った。私は車を降りて、助手席に座って資料を見て欲しいというと、分かりましたと言い、私の隣の座席に腰を降ろしてくれた。

「これが息子の嫁が送ってくれた千葉県の『高齢者のための季節の献立集』です。とても良く出来ていたので、大川さんにも1部コピーを取って来ました。これがそうです。どうぞ!」

私が室内灯を二つ点けると、大川さんはさっそく献立表全体をめくりながら少し考えるような表情をした。それから今日の予定である4月の2週目12日の献立表を開きながら、私に言った。

「小松さん、小松さんがおっしゃるとおり良く出来た献立表ですね。この献立表からは、自分のお父さんやおじいちゃんを想いながら作られたような優しさを感じます。作られた方の真心が感じられます。

ですが、ほとんど料理が初めてという高齢者には、いきなりこの献立表通りに作ることは難しいと思います。今晩のメニューは、ツナチャーハンとコンソメスープ、それにじゃがいもとキャベツの甘煮ですね。

今回は、お電話で約束したとおり『じゃがいもとキャベツの甘煮』を作る材料と調味料を買いましょう。作り方は、私がメモして来ましたので、お家に帰られてからやってみて下さい。」

大川さんは自分の買い物を後回しにし、「じゃがいもとキャベツの甘煮」の材料を探し始めた。その前に、私の家にある材料と調味料を尋ねた。そして、キャベツ・にんじん・シイタケと、調理用の酒・みりん・オリーブオイルを籠の中に入れた。私はただ、大川さんの後をついて回った。少し、財布の中身が気になった。

「初めは、調味料などお金が掛かりますが、長持ちしますから、結局安い買い物になります。それから、余った材料はしばらく持ちますので、他のメニューにも使えるので大丈夫ですよ。」

買い物が終わると、大川さんはバックを開けて、二つに折った紙を取り出した。作り方のメモ用紙だった。大川さんはスーパーの入り口の明るい場所で、メモを私に見せながら説明してくれた。一通り説明が済むと、大川さんは「頑張って下さいね。」と、再び店に入って行った。今度は、自分の買い物をするために。

私は家に着くとさっそくスーパーの袋からすべてを取り出し、調理に取り掛かった。時間は、午後9時近くになっていた。メモを見ながらなので、出来上がったのは10時を過ぎていた。ご飯を電子レンジで温め、「じゃがいもとキャベツの甘煮」で遅い夕飯を摂った。これだけではタンパク質が不足するとのことで、豆腐も一緒に食べた。

初めて作った「じゃがいもとキャベツの甘煮」は正直美味しいとは言えなかったけれど、慣れれば私もパソコンのように腕を上げることが出来ると確信した。

第16章  料理勉強会のキッカケ

次の週のパソコン勉強会の休憩時に、大川さんが皆の前で私に聞いた。

「小松さん、先日の『じゃがいもとキャベツの甘煮』、どうでした?うまく作れました?」

私は少し驚きながら答えた。

「ええ、レシピの通り作りましたので、とても美味しく作れましたよ。」

皆がどういうことなのか、興味津々という顔で、大川さんと私の両方の顔を見比べた。私は正直にありのままを仲間に話した。すると、ある高齢者の女性Sさんがいきなり真剣に話し始めた。

「私、先日テレビで見たんですけど、高齢者には低栄養者が多いそうなんです。でも、家族と一緒に食事をしている人は少ないそうですけど、一人で住んでいる人が低栄養者になる人が多いんですって。低栄養者の人は、そうでない人と比べると介護を受ける確率が同じ年齢の人よりずっと高くなるんだって。

それに免疫力が低下し、風邪を引きやすくなったり肺炎にもなりやすいと講師の先生が言ってました。他にも一杯あって、認知機能が低下するとか心筋梗塞や狭心症にも掛かりやすいとか。

私も、一人暮らしで食生活は随分いい加減なので、心配になってしまって。小松さん、私にも『高齢者のための季節の献立集』のコピーを頂けませんか?コピー代はお支払いしますから。」

いつも賑やかな休憩時間が、急に暗く寂しいものになってしまった。

そのパソコン教室の日の夕食も、私は献立表のとおりに作ろうとした。『高齢者のための季節の献立集』では、ごはん・カレイの煮つけ・ブロッコリーの菜種和えだった。(私にも少し知恵がついた。秘密だけれど、このレシピはなかったので、ネットで調べた。)

スーパーで材料を買って来た。カレイの煮つけは、鍋にコップ半分の水を入れ、しょうゆ・砂糖・みりん・酒等を適量入れ沸騰してから、頭を落とし3つに切り分けたカレイを入れた。

ブロッコリーの菜種和えは、鍋でブロッコリーを茹で、茹であがったら取り出し冷ましてから、冷蔵庫で冷やす。それから油を引いたフライパンに卵を入れ、混ぜながら火を通してから冷ます。最後に、醤油と和風だしで調味料を作り、一口サイズに切ったブロッコリーと卵と調味料を絡めて完成。

このブロッコリーは、マグネシウムとカルシウムを多く含んでおり、血圧を正常化する効果があるらしい。また美容にも効果的なビタミンCがレモンの約2倍含まれているとのことなので、女性にもお勧めだ。この献立表は素晴らしい。改めて感動してしまった。

次の週のパソコン勉強会の休憩時間に、私が『高齢者のための季節の献立集』をほめると、63歳になる一人暮らしのYさんが言った。

「小松さん、私はスーパーで好きなものばかり食べているので、この前のSさんの話しを聞いてから、何か心配になってしまった。だが私は料理には全く自信がない。そこでお願いなんだけど、このパソコン勉強会のように『高齢者のための季節の献立集勉強会』を、このメンバーで開いて貰いたいと考えたのだが、どうでしょう?」

この公民館には、調理用器具が設置された部屋があった。それに使用料はとても安い。大勢が入れる大きさである。瞬時に大川さんが声を上げた。

「その考えは、私も素晴らしいと思います。確かに男の方で料理が苦手な方は多いと思います。この献立集を教科書にして、毎週1回程度この公民館で勉強会を行えば、1年後ぐらいには皆さん、かなり上達すると思います。どうでしょう。皆さん、この際思い切って始めてみませんか?」

大川さんが話し終えると、全員賛成というように拍手が響いた。そこで私も発言した。

「料理勉強会と言いますと、いろいろ準備など大変な問題もあろうかと思いますが、心配するより先ず行動が大切です。皆さん、賛成のようですので、次回のパソコン教室の後、運営についての話し合いをしたいと思いますがいかがでしょうか?こんな勉強会にしたいとか希望があれば考えて来て下さい」

ここで休憩時間は終了した。

第17章 「なのはな会」発足

次週のパソコン勉強会で話し合う「料理勉強会の運営」について私は考えた。

パソコンの勉強会の場合、ノートパソコンだけを各自用意すればよい。後は、講師役が資料を人数分だけコピーするだけで事足りる。

しかし、料理勉強会はそうはいかない。料理の食材の買い出しは、約10人分ともなれば大変な量だ。誰が買い出しをするのか、また肉や魚などの生物は、外気の温度によっては鮮度が落ちる。クーラーボックスも必要になるし、保冷材の管理も必要だ。

まあ、問題はたくさん出てくるだろうが、愚痴からは何も生まれない。一つひとつ解決しながら進める以外にない。翌週の話し合いに向けて、私はA4サイズの用紙に、「料理勉強会発足にあたって」との題名で、決めなければならないこと、相談しなければならないこと等思い付いたことを列挙した。

①         会の名称を決めること

②         会長(責任者)を決めること

③         講師役について

④         勉強会の回数について

⑤         勉強会の開催時間について

⑥         出欠の有無について

⑦        買い出しについて

⑧         食材などの費用の支払いについて

⑨         講師役の人からの費用徴収について

⑩         クーラーボックス及び保冷材の購入について

⑪         その他(何でもどうぞ!)

当日、パソコンの勉強会の時間を少し切り上げて、3時30分から「料理勉強会」についての話し合いを行った。全員の了承のもと、私の用意したレジメに従って進めることになった。

会の名称について、私が発言した。

「この『高齢者のための季節の献立集』は千葉県と千葉市の方々が、高齢者のために作られた、とても心のこもった、素晴らしい献立集です。千葉県の県花は、なのはなです。作られた千葉県に敬意を表して、この会の名称を「なのはな会」としませんか?また、このメンバーだけでなく、皆さんの紹介があれば、どなたでも参加できるということにしてはいかがでしょうか?」

とても良い名前だと、数人の人から称賛の声が上がり、私たちの『高齢者のための季節の献立集』勉強会の名称が「なのはな会」に決まった。

会長の選任は、大川さんからの推薦があり、また全員の拍手で私と決まった。私はこの仲間から必要とされているのが嬉しかった。

つづいての講師役の件については、大川さんから発言があった。

「先週、私出過ぎたことを申しましてすみません。もし私で宜しかったら、講師役と言うより、お世話係をさせて頂きたいと思います。私、一応調理師の免許を持っています。でも、昔高校を卒業してから調理師学校を出ただけで、経験はありません。

それから、私仕事がありますので、毎回参加できるか分かりませんので、定年前に病院で管理栄養士をしていた、知人の加藤さんに先日直接相談をさせて頂きました。

そうしましたら、とても素晴らしいことなので、ぜひ仲間に入れて欲しいと加藤さんからお願いされました。皆さん、いかがでしょうか?私と加藤さんで、講師役とか堅苦しいことは抜きにして、おいしい料理を皆さんと一緒に作って行けるようお世話係ということでどうでしょうか?」

大きな拍手に「どうぞよろしくお願いします。」と、大川さんは立ち上がって深くお辞儀をした。

つづいての議題に入った。勉強会の回数についてだ。ここでも、私が口火を切った。

「前回、大川さんから、週一という話がありましたが、私は少し負担が大きすぎるような気がしています。毎週パソコン教室もありますし、各自それぞれ用事もあることでしょうから、どうでしょう?2週間に一度ということでは?」

私は、無理に押し切るつもりは更々ない。後から議題で出てくる「買い出し」このことが一番心配だったからだ。大川さんが、再度立ち上がって発言した。

「前回、私良く考えもせず、週一なら上達が早いなどと生意気なことを申しましたが、週一のペースは会長の言う通り、皆さんの負担が大きすぎると思います。初めから、無理なスケジュールを組むより、余裕のある、次回の勉強会が待遠しいと思えるくらいがちょうどよいと思います。ですので、私も、会長の意見に賛成です。」

それ以降も順調に議事は進んだ。しかし、⑦の買い出しが問題だった。

第18章 食材の買い出しの問題

勉強会のメニューは、『高齢者のための季節の献立集』の予定に合わせれば何も迷うことはない。例えば、4月20日に勉強会をするとしたら、「春の献立集(第3週)20日」を見れば良い。

朝食 ごはん キャベツと卵の炒め物 小松菜のごま和え

昼食 のり巻き・納豆巻き(市販) けんちん汁 果物

夕飯 ごはん すき焼き風煮 長芋の梅和え

ただ、朝昼夜のどれを選ぶかだが、基本的には夕食が当然良いと思う。なぜなら、日本人は夕食を3食の中で最も重視しているからだ。

理想の食事摂取カロリーの割合は、朝:昼:夕=3:4:3とされているそうだが、日本人でどの位の人がこの割合での食事をしているだろうか。私が現役の頃、車の中でお握りを食べながら出勤するという同僚がいた。ある独身者は、朝飯を食べる時間があるなら、寝ている方がましだと言った。日本人は、朝食を大切に考えている人が少ないと思う。

買い出しの議題になると、急に騒がしくなった。

○具体的なレシピがない料理では、何の食材を買えば良いのか分からない。

○どの位の量を買えば良いのか分からない。

○膝や腰が悪く重いものが持てない。

○スーパーに食材がなかった場合どうするのか?

他にも色々意見はあったが、主なものは以上だ。この問題については、私も大川さんも良い解決法は直ぐには浮かばなかった。ふいに大川さんが、立ち上がって言った。

「確かに、この献立表にレシピが載っていない料理があります。私も、何の食材をどれくらい用意すればよいのか正直分かりません。この解決法は、勉強会の前に、一度試作をすることが一番良い方法だと思います。

一度試作をすれば、何が必要か、どの位の量が必要かなど分かります。また、勉強会をより効率的に進めることにもなります。ですので、私よりも献立に詳しい管理栄養士だった加藤さんに相談したいと思います。次回までには、ご報告できるように致します。

また、膝や腰が痛くて重い物が持てないという方がいらっしゃいましたが、一人での買い出しでなく複数の方での買い出しにすれば解決できると思います。集合場所と時間を決めておけば良いと思います。また、必要な食材がなかった場合は、私か加藤さんにご連絡をくだされば、ご返事できるようにしたいと思います。」

大川さんが、一人で解決してしまった。すごい人だなと感心してしまった。

⑧の食材などの費用の支払いの件についてだが、準備金として一人2,000円を第1回勉強会前に徴収し、先ずそのお金でクーラーボックスを買うことにした。保冷材は、家に余っている人が数名いて寄付してくれるという。第一回目の勉強会の買い出しは、残りのお金で十分間に合う。その第1回目の買い出しは、私と大川さんが担当することになった。徴収したお金を私が受け取り、買い出し後に領収書とお釣りを「会計係」に渡すということになった。私は「会計係」が必要なことが、今になってやっとわかった。この役は講師役の大野さんが引き受けてくれることになり、収支報告は「なのはな会」で共有するブログで随時大野さんが更新してくれることになった。尚、当日の費用は人数分での割り勘にすることで決定した。

⑨の講師役の人からの費用徴収についてだが、当日の分は講師役の人からも負担して貰うことにした。ただ、試作用の食材等については1回毎に500円の補助金を会から支払うこととした。なので、当日の負担金にはこの500円も含まれる。試作は、多分大川さんと元管理栄養士の加藤さんがすることになるだろう。⑩のクーラーボックス及び保冷材の件は、複数の買い出し担当者を勉強会終了後に決め、その担当者が管理することに決まった。

予定より少し時間は伸びたが、話し合いは順調に進んで終わった。

第19章 よみがえる恋心

私と大川さんはクーラーボックスを買うため、ある日近くのホームセンターで待ち合わせた。

私がホームセンターの駐車場に入り空いている場所を探していると、大川さんが走って来て空いている場所を教えてくれた。私は迷いなく駐車することができた。

「どうもすみません。ここの駐車場はいつも一杯で停めるのが大変で、お蔭で助かりました。」

私がお礼を言うと、大川さんは嬉しそうに微笑んだ。

クーラーボックスのサイズはいろいろあって、私にはどの位の大きさが良いか見当がつかなかった。私が下調べをしてこなかったのに気付いた大川さんは、キャスターの付いた48リットル用のクーラーブックスを指さして言った。

「小松さん、約10人分の食材を入れるとなると、キャンプに行く訳でありませんが、この大きさが必要だと思います。魚や肉などの常温では傷みやすい物だけといってもかなりの量になりますし、後から買い直すより少し大きいかなと思う位でちょうど良いと思います。それにキャスターも付いていますので、足腰に負担を掛けないで買い物が出来るので、きっと皆さんに喜んでいただけると思います。」

大川さんは流石だと感心してしまった。何の予備知識もなくやって来た私は、少し恥ずかしかった。このクーラーボックスの料金は約6千円だったが、金額的にも特に問題はないと思い私は賛成した。ホームセンターでの買い物を終え、クーラーボックスを抱えたまま、私は大川さんにお礼を言った。

「大川さん、どうも有り難うございました。私一人で来たら、きっと小さすぎる物を買ってしまったと思います。本当に助かりました。それでは来週また!」

私が車に向おうとしたその時、大川さんが後ろから声を掛けた。

「小松さん、もしお時間がありましたら、少しだけ私に付き合って頂けませんか?『なのはな会』の第1回目の献立の試作の食材を今から買いに行こうと思っているんです。」

もちろん私は喜んで承諾した。試作の献立は「高齢者のための季節の献立集」春の献立表2週目12日の夕飯だった。いつものスーパーに行くと、大川さんはバックから白い紙を取り出した。食材が詳細に書いてあった。試作をするということは、その食材の購入だけでも大変な負担を強いるとは考えてもみなかった。

私は大川さんのマイバスケットを乗せたカートを押して、紙を見ながら歩く大川さんの後を付いて回った。大川さんは食材をカートに入れると白い紙にチェックした。私の買い物は、売り場を良く理解していないので、同じ所を行ったり来たりを繰り返すが、大川さんの買い物は要領が良かった。

第1回目の「なのはな会」のメニューは、回鍋肉・たまねぎとニラの中華和えだった。私は回鍋肉という料理は初めて聞く料理名だった。多分大川さんはネットで調理法を調べ、食材をメモして来たのに違いない。そうでなければ白い紙にあれ程事細かに書かれている筈がないと思った。

私と大川さんが二人で買い物をしている時、パソコン仲間の一人と会ったが、「なのはな会」の試食用の食材を買い求めていることに、「ご苦労をお掛けします。」と感謝の言葉を残し、忙しいのでと草々に帰って行った。私と大川さんが二人でいても、また買い物をしていても、多分誰も不自然とは思わない。「なのはな会」の会長と講師役が会の活動をしていると思うに違いない。

妻が生きていた頃はよく二人で買い物に出かけ、いつも私が今日のように買い物籠を持って歩いた。私の好物の食べ物を籠に入れるとき、いつも妻は私の顔を見ながら微笑んだ。大川さんも、食材を籠に入れるたびに私に笑顔を向けた。

それにしても、妻以外の女性と二人だけで買い物をするのは、大川さんが初めてだった。妻の生存の頃を思い出し、妻と買い物をしているような錯覚に陥った。確かに大川さんは妻に雰囲気が、そして仕草までもが似ている。

第20章 「なのはな会」第1回勉強会

第1回目の「なのはな会」の勉強会には、定年前に病院で管理栄養士をされていたという加藤さんが初めて参加した。加藤さんは簡単な自己紹介の後、「なのはな会」の仲間に入れて嬉しいと感謝の言葉を述べた。大川さんが、高齢者の食事の問題について一言お話ししてくれませんかとお願いすると、加藤さんは以下のような話をしてくれた。

〇 健康で長生きするためには食生活が大切であり、老化の大きな原因は栄養が足りないことにある。現役世代は肥満やメタボが健康上懸念されているが、高齢者においては低栄養・低体重の方が問題視されており、バランスよくしっかり食べることが高齢者の食の基本である。

〇 1人暮らしの高齢者の孤食は食事を楽しむという意識が乏しく、その結果食事を作ることが面倒になり、惣菜や弁当の利用頻度が高くなっている。また不規則な生活の影響で、1日に2食と食事回数が減っている高齢者も多い。(栄養のバランスが悪く、またエネルギー摂取量不足の原因)

〇 「千葉県の高齢者のための季節の献立集」はバランスのよい食事ができるように考えられており、また旬の食材を取り入れた春夏秋冬にあわせたレシピとなっているので、「なのはな会」の教科書として相応しい。

〇 「なのはな会」で料理を勉強することは、考える・手指を使うということになるので、認知症予防の効果がある。また仲間と楽しく食事することは、体の健康だけでなく、大きな心の栄養にもなる。

大川さんは、約7~8分間ゆっくりと、分かり易く話してくれた。そして最後に、「この『なのはな会』発展のために微力ですが、お役に立てるよう頑張ります」と言って着席した。真剣に聞いていた会の皆は、一斉に拍手をした。私もさすがに栄養士の人はすごいと感心してしまった。

続いて大川さんから説明があった。いよいよ料理勉強会に入る訳であるが、今回は初めてなので、デモンストレーション方式での勉強会にするとのこと。どういうことなのか、私もまた他の仲間も分からなかった。

結局、大川さんと加藤さんが全員の前で今日の料理を一度作って見せるということらしい。その間、メモを取ったり、質問をしても良いということだった。これなら分かり易く、私たち高齢者にはとても嬉しい方法だった。

この公民館の調理実習室は午前10時から午後3時まで借りているので、時間的に充分余裕があり、料理初心者が多い私たちの「なのはな会」の勉強方法として理想的な形態だった。

デモンストレーションの前に、今日のタイムスケジュールと班分けの発表が大川さんよりあった。本日の参加者は大川さんと加藤さんを含め9人であった。そのため3つのテーブルに3人ずつの配置となった。班ごとに分担をしながら調理をするスタイルとのこと。比較的高齢の班に大川さんと加藤さんがそれぞれ入った。

今日の献立「回鍋肉・たまねぎとニラの中華和え」のデモンストレーションはスムーズだった。これは、一度大川さんが試作をしているからだと思う。二人が次々に食材を切り分け調理するのを、私たちはじっと見つめていた。レシピを見れば分かることだが、実際に作るところを見るのと、紙のレシピを見ながら作るのとでは全然違う。

初めに「回鍋肉」を作って見せてくれた。合わせ調味料の作り方は、私たち男性には少し難しく感じられた。それでもキャベツやにんにくの切り方、また油を引いたフライパンににんにくを入れ、香りが出たところで豚肉を入れる、その順番やタイミングなどを掴もうと、男性だけでなく全員真剣だった。

第21章 恋心の驚きの進展

第1回目の「なのはな会」は大成功だった。加藤さんが「高齢者の食事における低栄養とエネルギー摂取量不足の弊害」を1番に話してくれたので、「なのはな会」全員が勉強会に気合が入ったからだ。しかし、調理終了後に仲間で楽しく作った料理を、和気あいあいと食べるのは本当に美味しかった。いつも一人で作る料理とは、およそかけ離れた素晴らしい献立であり味であった。誰かが嬉しそうに言った。

「次回の『なのはな会』が待ち遠しいね。今日貰ったレシピは、バインダーに挟んで台所で保存するよ。それに忘れないうちに、明日にでも、もう1回作ってみるよ」

「なのはな会」の勉強会の後片づけも済み、私は全員と挨拶をして家に帰った。帰るとさっそく仏壇の妻に今日の報告をした。そのとき、妻が微笑んでいるような気がした。どうして妻が喜んでいるのか考えてみた。私は、ハッと気が付いた。

変わったのだ。「なのはな会」の誕生の頃から、私には生きる力が出て来た。生きる張り合いが湧いて来た。以前、派遣の仕事も含めて、生きて行くことに自信を持てなくなっていた。働こうにも派遣会社も派遣元も、私を決して人格のある人間というよりも、単に仕事量から割り出した頭数としか見てくれない疎外感に苦しんだ。また知力も財力もないこんな自分に、生きて行くことに意味があるのかと真剣に悩んだ。

今はどうだ。「なのはな会」という小さな会だが、私は会長になって、少しでも会員のお役に立とうと頑張っている。いつの間にか、それが生きがいになって、生きる張り合いになっている。別に有名になった訳でもないし、お金持ちになった訳でもない。それでも、生きることが楽しくなってきた。

生きるために仕方なく呑み込んでいた食事が、楽しいものになってきた。いや食事自体よりも、作ることが楽しくなってきた。

先日の話に戻るが、「なのはな会」の勉強会の後反省会をし、大川さんが今回の勉強会で足りなかった調味料や使い捨ての食器などを購入したいと申し出た。私や会計の大野さんを始め、全員意義はなく、大野さんから2千円を大川さんが受け取った。

駐車場で、私は大川さんに聞いた。

「私、時間がありますから、ご一緒しましょうか?」

大川さんは「ぜひお願いします。今日は、少し遠いお店まで行きますので、1台の車で行きましょうか?」と言った。

公民館の邪魔にならない場所に大川さんの車を駐車し、私の車で行くことにした。大川さんはいつもの笑顔で私の車に乗った。大川さんが道案内をしてくれ、目的のお店まで20分くらい走った。私は緊張していた。妻に似ている、そしていつも私に笑顔を向けてくれるこの人に、私は好感を持っていた。だが、なぜこんなに緊張するのか、私にも分からなかった。

それからしばらくしたある日、私は自宅でレシピを見ながら昼食を作ったがどうも不味い。ちゃんとレシピ通りに作ったつもりだったが、食べられるものではなかった。再度作り直してみたが、やはり不味かった。こういう時、最近の私は大川さんに相談することが多くなった。大川さんから都合の悪い曜日や時間帯は予め聞いていたので、もちろんその時は避ける。

大川さんに電話すると、「もし宜しければご自宅に伺って私が作ってみましょうか?」と言う。私は一瞬動揺したが、ぜひお願いしますと答えた。20分程してから大川さんは我が家の玄関のチャイムを鳴らした。

最近の私は、新聞や雑誌などを見るときは老眼鏡をかけている。しかし料理をするときは、メガネが曇ってしまうことがあるのでかけていなかった。大川さんがレシピの合わせ調味料の作り方を私に尋ねた。私に間違いはないという自信を持って、私は何度も作ったそのやり方を話した。

「小松さん、一つ大事なことを忘れています。この『豚肉とキャベツのさっと煮』のレシピは二人分のものです。小松さんは一人分の食材なのに、合わせ調味料は二人分の量です。これでは味が濃すぎます」

私はびっくりした。考えてみると、確かにその通りだった。大川さんの指導でも一度作り直して、小皿で味を見ると美味しかった。二つ目の「れんこんとにんじんの甘酢漬」は、初めから大川さんに作ってもらった。パソコンで下調べはしておいたのだが、どうも自信がなかった。

二人で少し遅い昼食となった。やはり、女性には料理については適わないと思った。

「小松さん、女性でも初めての料理は自信などありませんよ。一度作れば反省点が必ずあります。2回目はそこを注意すれば良いだけの話しで、男性だって大丈夫ですよ。プロのコックさんに男の人が多いのは、反対に男の人の方が料理に向いているのではないでしょうか?」

なるほどとまた感心してしまった。ここで私は大川さんの息子さんのことが心配になった。私のせいで、息子さんが昼ご飯を食べられないでいるのではと心配になった。しかしその心配は杞憂だった。大川さんは、出がけに息子さんの食事は用意して来たらしい。今日は、時間の心配はありませんと笑顔で言った。

使いこなした古いソファーで、私と大川さんは昼食後のコーヒーを飲んでいた。こうして二人で面と向かって相対するのはもちろん初めてだった。世間のありふれた特に意味のない会話をしていたその時、急に大川さんが話題を変えた。

「これからの日本人は、癌になる人が2人にひとりだそうです。そうすると私も癌になる可能性が高いですよね。私癌にはかかりたくないんです」

大川さんがひどく心配そうに言ったので、私は何とか気分を変えてあげようと思った。

「癌にかかる割合は高いかも知れませんが、大川さんがそうなるとは決まったことではないので、余り心配してもしょうがないと思いますけど。また、術後の5年生存率も大分伸びたそうですよ。

ああそうだ。以前、ショッピングセンターの書店で買った癌に関する本を何冊か持っています。妻が亡くなってから買った本です。もっと早く読んでおけば良かったと思いました。柳田邦夫という人が書いた本で、3冊位ありますからお貸しします。持って帰って、時間があるとき少しずつ読んでみて下さい。もう随分前に書かれた本ですが、基本はしっかりいていますので、勉強になると思います」

私はソファーの後ろの本棚から柳田邦夫氏の「死の医学への序章」「死の医学の日記」「癌回廊の明日」、この三冊を取り出そうとした。大川さんに触れないよう少し無理な体勢から体を伸ばした私は、あろうことか大川さんの体へと倒れ込んでしまった。

外は雨が降っており、部屋のカーテンは閉めたままだった。

大川さんは驚かなかった。私が「ごめんなさい」と慌てて立ち上がろうとすると、大川さんは「少しの間このままでいて下さい」と私の肩に腕を回して言った。私の顔と大川さんの顔は何センチも離れてはいない。そう言うと大川さんは眼を閉じた。

私には今の状況が理解できなかった。ただ、大川さんが私に対して好意を持っていてくれたことは確かのようだ。私の顔の前には目を閉じた大川さんの顔があり、唇があった。私はその時妻を忘れ、彼女の唇に自分の唇を重ねた。

暫くそうしていた。だが、私は妻以外の人を知らないし、こういう状況を全く予想していなかった。その先には踏み込むことは出来なかった。

やっと、二人は起き上がった。テーブルの上のこぼれたコーヒーを拭いている大川さんの顔を見て驚いた。頬が涙で光っていた。

第22章 涙の真相

私は、どういう態度をすれば良いのか分からなかった。この時の私は63歳であり、我が身の出来事のすべてにおいて、既に達観していなくてはならない年齢の筈だった。ところが、この体たらくぶりには自分でも情けなさを感じずにはおれなかった。

テーブルの上のこぼれたコーヒーを大川さんが拭いている間に、私は台所に行き、再度お湯を沸かした。私は豆から挽いたコーヒーを飲むほど洒落てはいない。インスタントのコーヒーだ。だが瓶に入ったあるメーカーのインスタントコーヒーだけは、私にはとても美味しいものだった。

別な2つのコーヒーカップをテーブルに運び、大川さんに勧めた。大川さんは小さな声でお礼を言った。

いつも笑顔を私に向けてくれる、いつもの大川さんではなかった。だがもう涙は乾いていた。下を向いたまま、大川さんは私の顔を見ずに話し始めた。

「小松さん、今日はごめんなさい。すみませんでした。小松さんの奥さんが癌で亡くなられたのを知っていて、小松さんご夫婦の一番つらい話題を出して申し訳ありませんでした。私が、つい、癌にだけはなりたくないと口を滑らせたのは、一人息子を考えたからです。今の生活には少しの余裕もないうえに、癌ともなれば、手術の費用や治療費が大変だと思います。

また、お金の問題だけでなく、私が入院と言うことになれば、きっと息子は食事をきっちり摂ることも無理でしょう。一人、家の中に閉じこもっている息子は、今より更に悪い状況になってしまうと思います。二人に一人が癌になる時代と聞き、つい悪い方へと考えてしまうようになりました。」

ここで、大川さんはひとくちコーヒーを口に運び、更に話し出した。今度は、恥ずかしげな女性の姿が感じ取れた。

「私、中学生の1年の時、クラス委員のTさんという方に憧れておりました。とても勉強が出来る人でした。私は、Tさんに注目されたいと考え、私も勉強に打ち込みました。ですが、ぜんぜん適いませんでした。できればTさんと同じ高校に行きたかったのですが、Tさんは県立の有名校に進学し、私は別の女子高に進学しました。それから会うことはありませんでした。

幼い人間と思われるでしょうが、パソコン教室で初めて会った時の小松さんは、Tさんかと思ったくらい良く似ていて驚いてしまいました。その日、床に落としたハンカチを拾い私に渡してくれた小松さんに、私は昔の中学生の頃を思い出して小松さんがTさんのような錯覚に陥りました。

ちょうどその日は私の車が車検で、来るときは別な方に迎えに来て頂いたのですが、帰りは小松さんが送ってくれることになり、私はとても嬉しくてなりませんでした。ですから、今度またこういう時は連絡くださいと小松さんから言われた時は、すぐ小松さんの電話番号を登録させて頂きました。何か子供が宝物を手に入れたようなそんな気持ちでした。

でもそんな中学時代のTさんの姿ではなく、途中から「なのはな会」に力を尽くす小松さんにだんだん魅かれて行きました。ときどき料理の作り方のことで電話を貰うのはとても嬉しいことでした。今日、小松さんから相談があった時、小松さんと二人きりになれると思うと嬉しくて、ご自宅まで押しかけてしまいました。」

そこまで話すと、少しピンクに染まった頬を大川さんはハンカチで隠した。大川さんの私への愛の告白は信じられなかった。私は迷った。私も大川さんと同じ気持ちであるのは確かだけれど、ここで私が正直な心の内を曝け出すことは怖かった。ここは我が家で、愛する妻の仏壇がある。

私は、「これからもパソコン教室や『なのはな会』で頑張りましょう。『なのはな会』は大川さんが主役ですから、期待しています。」と逃げた。

大川さんは時計を見ながら「もう、こんな時間?」と言った。そして、「奥さまの仏壇にお線香をあげさせて貰っていいでしょうか?」と私に尋ねた。私は、6畳の仏間に彼女を案内した。

ずいぶん長い間、大川さんは妻の仏壇に手を合わせていた。妻と会話をしているような、そんな雰囲気だった。

やがて頭を上げた大川さんは、先ほどの居間に戻ると私が貸した3冊の本をバッグに入れ玄関に向った。大川さんは、玄関の扉を開けようとする私に頭を下げながら言った。

「今日はすみませんでした。ありがとうございました。でも、正直嬉しかったです。」

その言葉に、私は思いもよらぬ行動に出た。心の底にしまい込んで置こうとした感情が、まるで何かに突き動かされたように。バックを持ったままの大川さんを抱きしめたのである。大川さんはバックを床に置き、私の胸に顔をうずめた。

第23章 高齢者の性の問題

私が50歳になった頃、妻と寝室を別にした。妻と諍いがあった訳ではない。私はその年になってもまだ昼夜交代勤務をしていた。この年になっての夜勤の疲れは、数日尾を引く。そういう状況の中、会社は私をあるチームの副責任者に抜擢した。

中卒と言えでも、私には長い経験がある。そしていつも真剣に仕事に向き合う。有給休暇を取った覚えも殆どない。その辺が評価されたらしい。本来の仕事の他に、部下の指導や会議の資料作りなどで忙殺された。夜遅く妻が読書を終えて、私の隣の布団に潜り込むかすかな音にも、私は目が覚めてしまうほど、心身ともに疲弊していた。そんな状態のある日、妻が言った。

「お父さん、最近大分疲れているでしょう?私には良く分かります。夜も、熟睡できないみたいだし。ご飯もあまり進まないし。私は、心配で・・・。お父さん、夜勤の仕事が免除される55歳になるまで、お父さん、別々の部屋で寝ましょうよ。別々と言っても、隣の部屋だし。夜は、気兼ねなくゆっくり休んで欲しいんです。」

その日から私たち夫婦は、寝室を別にした。この時期には、私たち夫婦には夜の営みは既になく、私は妻の意見に従った。

話しを元に戻すことにする。現在、私は還暦を過ぎた63歳の高齢の身である。妻と寝室を別にする以前から、私は既に“男”としての自覚はなかった。友人とそういう性に関する話はしなかったし、世間の平均的な夫婦の性生活についての知識もなく、特に関心もなかった。

大川さんと親しくなって、初めて自分は“男”であるということを、今更ながら意識せざるを得なかった。それまでは、妻以外の人を好きになったり、ましてや抱きしめたりすることなど、夢でさえも考えられないことであった。

私は、高齢者の性について考えてみることにした。私は男なので、特に女性の性に関する意識について知りたかった。ただ、大川さんは、50代の後半である。高齢者ではない。しかし、女性として基本的には同じ筈である。

-人間の欲求について-

人間の欲求には体と心の2種類の欲求があるという。一つは生理的欲求であり、もう一つは社会的欲求であるという。

1、生理的欲求とは、食欲・睡眠欲・性欲の3大欲求である

2、社会的欲求とは、おおよそ次のような事である

  〇お金や財産がもっと欲しい

  〇他の人より優れていたい

  〇尊敬されたい

  〇集団に加わりたい

  〇嫌いな人を排除したい

この生理的欲求の3大欲求の中で特に問題なのは“性欲”である。眠れない、食欲がない等の悩みは、少し親しい間柄なら誰に対しても恥かしくなく平気で相談できる。家族なら尚更だ。しかし、“性の悩み”だけは相談すら難しい。まして老人の身では「いい年をして!」と罵倒される恐れさえある。

-高齢女性の性に関する意識について-

〇ある有名女性評論家の性への意識

いつだったか、有名な女性評論家が、新聞の人生相談の回答で女性の性について語ったことを覚えている。この評論家は高齢の方であったが、今でも恋愛について憧れていると言う。しかし自らの高齢から招いた容姿や、社会的立場から諦めているという。私は思った。高齢で、しかも高い見識のある女性でさえも、やはり性には関心があるのだと。この有名な評論家は自らの肩書に縛られることなく、素直な心を曝け出して、相談者に向き合う姿には感動した。

〇大岡越前の母の性への意識

また性についての「大岡裁き」とう有名なエピソードがある。江戸時代、大岡越前守が、不貞を働いた男女の取り調べで、女性からの誘いに乗ってしまったとの男の釈明に納得がいかなかったという。その訳は、被告の女が40代の年増女であったからである。江戸時代で40代ならば、現代の感覚に変換すると60代以上に匹敵するかも知れない年である。その女が、男を誘うこと等あり得ることなのか?このことがどうしても気になった大岡越前は、誰かに聞く訳にもいかず、悩んだあげく母に尋ねた。

『母上、おなごというものは、一体いくつになるまで殿方と閨房にて睦み事をなさりたいと思うのでございますか?』

それを聞いた母は、無言で火鉢の中の灰を差して席を立ったという。その所作を見て、大岡越前は悟った。女性の性欲とは、死んで灰になるまであるものだと。これで疑問がすべて解けた大岡越前は、お白洲での裁きを申し渡したそうだ。

私は個人的に、ある老人施設で入所者の男女が裸のまま抱き合っていたという話を聞いたことがある。また、こうした施設の中での男女間のトラブルが多いということも聴いたことがある。

以上のことだけで、すべての女性に当てはまるとは言えないけれど、高い確率で真実を現しているのではないかと思う。であれば、おおよその女性は何歳になっても性に対する欲求があるということになる。大川さんの私に対する好意には、そうした欲求が無意識にでも働いているのだろうか?あるいは私の独り相撲で、そうした考えなど大川さんの深層心理にさえ微塵もないのかも知れない。もっとも、私には“男”としての機能は既に失われている可能性が高い。

私は、これからどう大川さんに接していったら良いのか、皆目見当がつかなかった。

第24章 二人だけの夕食

第1回目の「なのはな会」後の反省会で、第2回目は4月の25日と決めてあった。「高齢者のための季節の献立集」の春の献立表第4週目の25日は、「カジキの鍋照り焼き」と「わかめとキャベツのからし和え」の二品だった。

昨日、大川さんから私に電話が入った。第2回目の「なのはな会」の試作は大川さんと加藤さんとで話し合い、加藤さんが一人で行う筈であったが、講演やその他の用事が続いたため、大川さんに代わって欲しいという連絡があったとのこと。大川さんの要件は、明日試作をしたいが、私の家で作らせて貰っても良いかということだった。

私は「作り方を見せて貰えるので、私にも都合が良いですね。」と返事をすると、大川さんは食材をスーパーで買った後、11時頃に伺いますと言った。

次の日、大川さんは約束通りの時間にやって来た。今日は3人分を作るという。大川さんと私と、それに大川さんの息子さんの分だった。それなので、作り終わったらすぐ帰るという。感想は、電話で知らせて欲しいとのこと。

大川さんは、調理師の資格を持っているだけのことはある。手際が良いのである。ボールに酒・醤油・みりん・砂糖を適量入れて煮汁を作る。終えるとすかさずフライパンに油を大さじ半分注ぎ、熱するとメカジキを入れた。見た目の良い焼き加減で、カジキを返した。時期を見て煮汁を入れた。私でも出来そうであった。わかめとキャベツのからし和えも、素早く作り終えた。からしはチューブに入ったものを4㎝位醤油で溶かした。

次回の「なのはな会」の献立の試作は、大川さんの手に掛かるとあっという間に出来上がってしまった。大川さんは、自宅から食器を持って来ていて、3人分を平等に分けながら言った。

「厚かましくお邪魔してすみませんでした。でも、料理って意外と簡単でしょ?小松さんに少しでも、調味料の合わせ方など見て、覚えて貰えたらと思って」

大川さんは時計を見た。フライパンやその他の食器は私が洗うことにして、大川さんには温かい内に息子さんに食べて貰うため、急いで帰ってもらうことにした。玄関を出る前に、私は大川さんを抱きしめて唇を合わせた。大川さんは、私の背中に腕を回した。

あくる日の夕方、私の携帯電話の音が鳴った。大川さんからであった。息子の夕飯の用意も済んだので、今から伺っても良いかと言う。私は何事かと一瞬緊張したが、大川さんの声は弾んでいるようにも聞こえた。

私が夕食の献立を何にしようかと、冷蔵庫の中を物色した。豆腐と納豆、ウインナソーセージ・ハムの薄切り・卵などが入っていた。野菜室には、ネギ・きゅーり・ミニトマト・人参・キャベツ・シイタケが入っていた。冷凍庫の中には、鮭・コロッケ・ハンバーグ・さんま等が入っていた。

私が思案していると、玄関のベルが鳴った。普段着で玄関に立つ大川さんは、いつもの大川さんで私は安心した。

今から、夕飯の支度をするのだけれど、何を作ったら良いか分からなくて困っていると話すと、大川さんは「冷蔵庫の中を見せて頂いていいですか?」と言い冷蔵庫の中を見渡した。少し考えてから、大川さんは「ちょっとスーパーに行って来ます。すぐ戻りますから」と言って車で出掛けてしまった。

大川さんが帰って来るまでの時間はたぶん20分位だったと思うが、私には長く感じられて何をしていいのか分からず、ソファーに座り足を組んで待つしかなかった。

「ただいま!」

大川さんの声が聞こえたときは、嬉しくて玄関に走った。いつものスーパーのビニール袋を下げ、大川さんは息を切らせて入ってきた。さっそく台所に行き、袋から取り出したものは、カニカマ・片栗粉・和風ドレッシング・オリーブオイルなどであった。大川さんは、何かのメニューを考えて足りないものを買って来てくれたようだった。

「何の料理を作るつもりですか?」

私は、期待を込めて質問した。大川さんは、「豆腐にふんわり卵あんかけと温野菜サラダを作ります」と言って、溶き卵を作り、それからカニタマを指でほぐした。豆腐は半分に切った。鍋に水を入れ沸騰させ溶いた片栗粉を入れとろみをつけた。動きに無駄がなく、15分位で「豆腐にふんわり卵あんかけ」は完成した。その後に、床下のじゃがいもや冷蔵庫のキャベツとニンジンを使い、やはり15分位で「温野菜サラダ」も完成した。

今日の夕飯は、いつもの「孤食」ではなく「嬉食」だった。私が愛した妻の面影を宿した大川さんとの食事は、まるで妻が元気だった頃に戻ったかのような錯覚に陥った。そのことに多少引け目を感じながらも、今の私は大川さんに心を奪われていた。

初めての大川さんとの二人だけの夕食は決して豪華ではなかったけれど、私には至福の時間だった。ソファーに体を沈めた大川さんを制して、私はコーヒーを入れに台所に向った。いつものインスタントのものではあったけれど、二人で飲むブラックコーヒーは、いつにも増して美味しく感じられた。

私は、向かいの席から大川さんの隣に席を移した。大川さんは、とても落ち着いた雰囲気で、食後の余韻を楽しんでいるかのようだった。私が隣に座ってもさも美味しそうにコーヒーを口に運んでいた。

大川さんがコーヒーカップをテーブルに置いた瞬間、私は、またふいに大川さんを抱きしめた。大川さんはうろたえることもなく、その体を私に委ねたかのように静かに目を閉じた。私は、彼女の唇の感触を楽しみながら、これで良いのだろうかと不思議に冷静だった。

第25章 二人だけの誓い

私は、次の行動に出ようとしたけれど、私の体は意志に背いて反応しなかった。私の愛する妻の仏壇がある家の中での行為は、無意識に妻に対する背信行為という後ろめたさが私を萎縮させているようだった。

私は、気まずい思いのまま、大川さんから体を離した。大川さんは、無言だったけれど、私を責めるというような雰囲気ではなかった。むしろ、自分から押しかけ、暗に誘ったというような照れの表情にさえ見えた。

大川さんは、30代で事情があり夫と別れ、一人息子を育ててきた。大川さんなら、言い寄ってきた男たちも大勢いたことだろうと思うが、大手の運送会社で事務員として働き、息子を大学まで進学させた。その息子は、今引きこもりとなって一日中家の中にいる。

「私、将来のことを考えると、息子と二人で死んでしまいたいと思うことがあります。このまま私が高齢になり働けなくなったら、息子はどうなるのかと思い枕を濡らす毎日でした。

でも、パソコンの勉強会や「なのはな会」に力を尽くす小松さんを好きになってから、私にも生きる力が湧いて来ました。こうして、小松さんの家まで押しかけて来て、本当はご迷惑なのではと思いながら、小松さんの優しさに甘えてしまいました。

小松さんに抱きしめて貰い、乾いた土に降る雨がどんどん滲みて行くように、私の心に空いていた女の幸せが溢れていきました。心がときめきました。30代や40代の世間でいう女盛りの時、体が火照って狂おしい時もありましたが、気が付くと私はもうおばあちゃんになっていました。

正直にお話ししますと、小松さんを好きになってから、失ったあの頃の自分を想いだしました。私も、まだまだ女なのだと気付きました」

そこまで話すと、喉の渇きを潤すように冷めたコーヒーを口に運んだ。女の大川さんにそこまで言わせた私は、やっと重い口を開いた。

「大川さん、ありがとう。私は初めて大川さんにパソコン勉強会で会ったときから、気になっていました。正直に言うと、大好きだった妻にとても良く似ているのです。顔や姿という訳ではなく、ちょっとした仕草が妻そっくりで、さっきも夕飯を食べながら、一瞬元気だったころの妻と食事をしているような錯覚に陥りました。

でも、妻に似ているからではなく、今の大川さんが好きなんだとこの場で自信を持って言えます。私も、大川さんが大好きです。

私も大川さんに会うまでは、拗ねていました。財産もこれと言った能力もない私なんか生きていてもしょうがないんじゃないかと、半ばうつ病のように涙もろく虚ろな毎日でした。

しかし、大川さんに会うようになってから、私は生きる張り合いが持てるようになりました。そのお蔭で、今では『なのはな会』の会長として少しは皆さんのお役に立てるようにもなりました。これは、すべて大川さんのお蔭です。」

私は飾らずに自分の気持ちを打ち明けた。大川さんの顔を見ると、みるみる内に大きな涙を頬に溢れさせた。ハンカチで拭いながら、今度は大川さんが話し始めた。

「初めて小松さんの家にお邪魔させて頂いた日に、私は小松さんの奥様の仏壇にお線香を上げさせて頂きました。その時、私は奥様とお話をしました。本当です。

私が小松さんを好きになってもいいですかとお聞きしましたら、奥様は笑顔でよろしくお願いします、と答えられました。奥様は、私に小松さんの面倒を見て頂きたいと逆にお願いをされたのです。私は、もちろん奥様のことは仏壇のお写真でしか知りませんが、確かに奥様は私に語りかけてくれたのです。

奥様のお許しを得た私は、小松さんに積極的になりました。そして生きることが楽しくなってきました。今日も、私は嬉しくてたまりませんでした。心の中で、奥様に感謝しました。

私も女です。小松さんに抱かれたいとさっきまで思っていました。でも、小松さんは躊躇されました。その訳は私には分かりませんが、私も気付きました。私には一人息子がいます。この息子を独り立ちさせない限り、私だけが幸せになることは許されないと、今気付きました。」

私が躊躇した訳は、妻への背信と言って良いかと思う。しかし驚くことに大川さんは、私の家を初めて訪れたその日のうちに、仏壇の妻と会話をし、許しを得たと言う。

「大川さんの気持ちは良く分かりました。それに妻も大川さんならと許してくれたそうですから、これからは、誰に気兼ねすることなく大川さんと齢を重ねて行きたいと思います。息子さんが独り立ちするまでは、私もそのために出来る限りのことをさせて頂きます。そして、その日までは、大川さんを抱くのは我慢します。」

私の言葉を聞いていた大川さんは、涙のまま私にしがみついて来た。私は、大川さんの髪を撫でながら、今後のことを考えた。

先は長い!大川さんの息子さんが独り立ちするまでは、私も大川さんも健康でいなければならない!今の私たちは、栄養(料理)については学んでいるけれど、もっと積極的なアクションが必要なのではないか!それが何なのかを知るまでに時間は掛からなかった。

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