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創作の小部屋「30代派遣男の終活」後編

2021年10月21日

 30代派遣社員の終活 後篇

上の画像は、昨日行った霞ヶ浦です。私は筑波山が大好きです。画面をクリックして大きな画像でご覧ください。下の画像は帆引き船です。昔は、この船でワカサギ魚をしたようです。ですが時代の変化には勝てず、機械化による効率の良い漁法に変わり、今は見ることが出来なくなってしまいました。(この画像は購入したものです)

土浦駅東口近くに、土浦港があります。この港にはたくさんのヨットが並んでいました。

霞ヶ浦の少し南側に車を走らせますと、「予科練平和記念館」がありました。駐車場に車を入れると、コロナ禍で閉館中でした。

広い敷地の中に、雑誌で昔見た覚えのある、大きなある模型が横たわっておりました。終戦間際に作られた、ゼロ戦などの特攻隊と同じく、生きて戻れない人間魚雷です。長さは約15mで一人乗りです。ハッチは外から閉められたら最後、乗組員は外に出られません。

それでは、前回からの続き「30代派遣社員の終活」の後編をご覧いただきます。

  30代派遣社員の終活 後篇

【辛い派遣労働】

同居していた多くの仲間は、寮のある会社に派遣社員で働き始め、数人だけが残っていた。段々と自分が惨めになって来た。残った仲間も、私と同じようなため息をついて明日を憂いた。

幸運というべきか、それから間もなくして、また派遣の仕事に就くことができた。その派遣先は誰でも知っている大きな会社の工場だった。この会社には、派遣社員でも入れる寮があった。先のことは分からないが、少しでも出費を減らしたい。もうアパートに住む仲間は数人しかいない。私も同じようにアパートから寮へと引っ越した。アパートを出るとき、仲間は寂しそうに「元気でな!俺たちも直ぐここから出て行くよ」と寂しそうに言った。

朝8時15分にロッカー室に入り、朝礼とラジオ体操をしてから、自分の作業持ち場に向かう。おびただしい機械が並んだ広大な空間の先には、大きな表示板がある。今日の作業目標とその進捗状況などを示すものである。

フォークリフトで運ばれた大量の、そして幾つかの種類に寸断された鉄の柱を、7工程のプレス金型に順番にはめ込み成形させる仕事であった。

鉄の柱を入れる角度や力の入れ具合が、そのプレスに合わないと上手く動いてくれない。まだこの仕事に就いたばかりの私は、数日の間焦って無駄な動きをしていた。

でも、2週間を過ぎた頃から、やっとこの作業のコツというか要領が掴めてきた。作業効率も大分上がったと思った。決して裕福にはなれずとも、何とか安アパートでの暮らしなら一人でもやっていけると先が見えて来た。私は安堵した。

しかし、それもつかの間だった。ある日、その作業場の責任者らしい社員が、私の名前を呼んだ。私は、機械の電源を切り、社員に駆け寄った。

「高橋さん、一生懸命頑張っているのは分かるけど、今の仕事の速さでは次の作業工程に時間のロスが発生してしまって困っているんだ。今の倍ぐらいの速さで作業をしてくれないと困るよ。」

私は驚くとともに、非常に落胆した。私の感覚では、一瞬たりとも作業を静止いるつもりは無い。全身全霊、精一杯力を注いでいる。この倍の速さでの作業と言われても、それは無理だと思った。あと数か月、いや一月待ってくれたらきっと要望に応えられるかも知れない。私は、責任者らしい社員に懇願した。

「もう暫くの猶予をください。きっと倍の仕事をして見せます」

「高橋さん、私が上司に進捗状況の遅さを指摘されるたびに、まだ慣れないからと庇ってきたけど、もう3週間になるのにこの状況だ。明日から別な部署に代わってもらうしかない」

社員は、感情のない表情で視線を合わせずに言った。

私は、寮に帰ってから考えた。明日、別な部署に変わっても何も状況は変わらないだろう。せっかく慣れたばかりなのに、残念というより悔しい。この寮も出ることになる。

この派遣先の会社は、子会社に人材派遣会社を持っている。私はハローワークの紹介で派遣会社から入ったのだが、休憩時に話した同世代の派遣社員は、子会社の派遣会社から採用されたとのことだった。即ち、採用されても辞めてしまう人が多いので、自社で派遣会社の子会社を運営し、人材を何とか補っているらしい。

私は、この派遣先で何とか生活の立て直しをしたかったが、派遣会社の担当者に電話を入れた。食品会社の時と同じように腰を痛めたので、今日で辞めたいと話した。担当者は驚きもせず、早急に寮を出て欲しい旨と、腰が良くなったらまたお電話をくださいとだけ言うと電話を切った。私は、翌日寮を出た。

私が悪いのか?私に能力がないのか?ハローワークでいくら探しても正社員の募集は見当たらない。派遣会社は採用してくれるけれど、私には勤まらない仕事ばかりだった。採用してくれる会社は、人の出入りが激しいようだ。

その後も、もちろん生きて行くために仕事を探し、私になりに頑張ったつもりだったが、全て上手くいかずに挫折した。どの仕事も長くは続かなかった。

食肉加工会社、太陽光発電の営業、廃棄物処理施設での仕分け、ハウスメーカーの下請け会社での木枠製作など諸々の寮のある会社の仕事に就いた。

自分でも呆れるが、どうしようもなかった。こういう状態での繰り返しだったから、手元の現金は見る見るうちに消えっていった。ある日、通帳の残高が1万円を切っていたのに気づき愕然とした。これでは、生きていけない。私は、天を仰いだ。

【ネットカフェに宿泊】

寮を出た私は駅に近いネットカフェに向かった。持ち金は少ない。もっと預金をしておけば良かった後悔した。数日の余裕しか残されていない。とにかくまた歯を食いしばり、寮のある派遣の仕事を探す以外に生きていく方法はない。

ネットカフェでは、自分よりも若い男女が目に付いた。ここで寝泊まりしているらしい。すっかりここでの生活が板に付いていると思われ男の頭は、白髪が混じり頭頂部は透けていた。

都会には、いろんな地方から出てきた人が集まっている。そして、それぞれの責任で、あるいは社会の仕組みの中で、自らに対峙して生きている。都会では、路上生活者を対象として、NPOなどが炊き出しをしている。その炊き出しに向かう人は、路上生活者とは限らない。安アパートに母子家庭で何とか暮らしている人たちも混じる。私は、まだそのお世話にはなりたくないと思っている。プライドなどではない。まだ、もう少し自力で生きていきたいと思っている。

【認定NPO法人自立支援サポート】

私は、ネットカフェで一晩過ごしたあくる日、市役所の窓口を訪れた。二度目に働いた時に、派遣仲間から「どうしても生活に困ったときは役所に行けば何とかなる」という言葉を聞いたのを思い出したからだ。正面玄関を入ると、総合案内と立てられた看板に座っている女性に声を掛けた。失業中で、ネットカフェで昨日から生活しており、所持金も少ないこと等を話した。

受付の女性は、『生活困窮者自立支援制度』という制度があり、社会福祉課が担当であると説明し、その課の入り口まで案内してくれた。この優しさは、担当者個人からなのか、市長も含めた職員の思いやりなのか、私は涙が出るほど嬉しかった。

社会福祉課の担当者の計らいで、あるNPOを紹介してくれた。さっそく担当者が来てくれ、とりあえずの仮住まいを提供してくれた。また、数日後にそのNPOの力添えで、ビルの清掃会社に就職することが決まった。だが、正社員ではなかった。

新しい職場で、頑張れるだろうか?私はとても不安で一杯だった。仕事の仲間は高齢者が多かった。ビルの清掃の仕事を始めて1週間が過ぎたが、今度はどうやらやっていけそうだ。まだ慣れないけれど、頑張ればこのビルの清掃のお金で、何とか生活していけるかも知れない。間もなくして、責任者が私に声を掛けた。

「この仕事は、若い人が少なくてね。君のような若い人が欲しかったんだ。君なら大丈夫だ。近い将来、君にこの現場を任せようと考えているよ。しっかり頑張って欲しい」

私は、天にも昇る気持ちだった。

【終活の目標】

NPOの方には心から感謝している。「人間万事塞翁が馬」という諺があるが、今度ばかりは身に染みてその通りだと思う。正社員の身分ではないけれど、このまま働ければ、誰にも迷惑をかけることなく生きていける。だが、アパートを借りての生活では預金をする余裕はなさそうだ。

今回、私はとても恵まれたけれど、若い人から高齢の方まで、貧しさ故に生きにくさを感じながらも、何とか今日を凌いでいる多くの人々を私は見てきた。父が昔言ったような、真面目に働けば普通の生活ができる世の中になって欲しい。私には貧富の格差とかは、どうでも良い。明日を憂いることなく生きていける世の中になって欲しいと思う。

自分の意志でなく、派遣先の会社の都合で自分の人生を変えられてしまうこの現実。立派な大学を出て、官公庁や一流企業に働く人々には、学歴もなく社会の底辺で生きる者の気持ちは分からないだろう。

確かに私は、それらの人々に嫉妬している。私は、将来を憂いることのない人生を歩みたい。今の私はとりあえず明日を心配せずに生きていける環境に恵まれたけれど、老後はどうなるのだろうか?

私の生き方のどこに間違いがあったのだろう?確かに私は学生時代、取り立てて優秀だった訳ではない。大学に行けなかったのが悪いのか?初めに就職した会社を選んだのが悪いというのか?

私だけなら、自己責任として素直に認め、どういう最期でも甘受もしよう。だが冬空の下、誰もいない公園でひとり寂しく亡くなったという老人のニュースを見たとき、この人たちも全て自己責任なのだろうかと、ふと思った。

私は未来について、いつの頃からか、赤や橙色などの明るい色は似合わないと思うようになった。人が懐古する時に良く使うセピア色、この色が現在の私に相応しい色だと思う。それは、多分この先もずっと変わることがない。老後の生活の色はグレーである。私は、悲観主義者なのか?

派遣会社を通じて見てきた多くの人たちもまた、私と同じような色彩を将来に見えているのではないだろうか?生涯、貧しさから抜け出すことはできないと諦めている。展望のない日常を、ただひたすら漂っている。

終活・・・・。コンビニで買った新聞にそんな見出しの記事が載っていた。まだ若いと言える私には、この先何を支えに生きていけばよいのだろうか?私には、妻も子供もいない。遺すべきものは何もない。だが、いつか独りで死を迎える時、この私も誰かの役に少しは立ったと、胸を張って逝きたい。

それにはどうすれば良いか?私が惨めな生き方をしてきたことを、誰かのせいにするつもりは毛頭ない。

私は小学生の頃から本を読むことが好きだった。図書館の本を休み時間に、また借り出して、夜遅くまで家でも読んだ。卒業する頃には、ほぼ全ての本を読み尽くしていた。新しい本をもっともっと読みたかった。だが、諦めた。親に本を買って欲しいと言える程、私の家の家計に余裕がなかったのを知っていたからである。

そうだ!私の終活は二つのことを実行することにしよう。

一つ目は、私の卒業したかつての小学校に本を送ることだ。毎月でなくとも、お金が入った時だけでかまわない。1冊本を買い、手帳にメモをしてから郵送する。同じ本を贈ることを避けるためだ。本の選び方は、抒情的な物語や伝記物を基本としたい。

二つ目は、お金を貯めることだ。死んだ後の始末ぐらいは、自分の力で何とかしたい。そのためにはお金が必要だ。少しずつでも、その日のために蓄えて行こう。それが私の二つ目の終活だ。悲しく寂しい終活だが、今の私にはそれ以外何も浮かばない。これから何年生きられるか分からない。出来ることなら古希辺りまで働きたい。そして100万円位を私の亡骸の後始末のために残したい。

私の生きる目標がやっと決まった。私の終活が今、始まる!

 

【あとがき】今朝、書き終えたばかりの物語で、脈絡や流れが纏まっていないかも知れません。文章は、時間を置いて何度も読み返すと、修正箇所が沢山出てきます。後日、修正の可能性があります。

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