小鳥

ブログ

創作の小部屋「独居老人のひとり言」第10回

2019年03月31日

 「独居老人のひとり言」第10回

上の画像は、近所の家で以前撮らせて頂いた花です。残念ながら花の名前は分かりませんが、とても個性的な美しさに魅かれます。

少しハイペースで書いています。熟考したことではなく、思い付きで書いているので、脈絡が少し不自然かも知れません。

  「独居老人のひとり言」第10回

第9章 平凡な老人の価値

私は体を動かすことが好きだった。妻が生きている頃は、いつも近くの公園の芝生の中を走り廻っていたものだ。数キロ先に、リンリンロ-ドと言って自転車と歩行者しか通れない片道40キロのサイクリングコースがあるが、50代の頃の私は平気で往復が出来た。63歳の現在の私は、落ち込んでいてそうした気力が無い。

妻と二人で頑張って、子供を育て上げた。その息子も嫁を貰い子宝にも恵まれた。親としての役目は終わったと思っている。この先、何の楽しみがあるのだろうか?鏡を見ると、顔の黒いしみは年を経るごとに増えていく。白髪も増え頭頂部は透けている。二の腕の皮膚にも、蛇の抜け殻のような皺がある。何処から見ても私は老人であることを認めざるを得ない。

前にも書いたが、家に一日いるということは本当に辛い。世間と隔離した、無用な老人・・・。最近はパソコン仲間ともご無沙汰しているので、言葉を発する時と言えば、仏壇の妻に話しかける程度である。

新聞の2頁辺りに良く新社長の紹介記事が載る。もちろん若いエネルギーと斬新な経営戦略を期待された若い新社長が多いのも事実だ。しかし、既に古希を過ぎたような老人の新社長も時々就任することがある。私はこうした高齢の新社長が羨ましくてならない。もちろん、相当な期待と責任を背負った地位は、私なら3ヶ月も持たないで、平に戻して欲しいと懇願する姿が眼に浮かぶ。

だが、世間に注目されつつ、大きな組織の中で自分の人生の最終章まで演じきれるというその生き方が、私にはたまらなく羨ましい。その羨ましさの中には、生涯お金に困ることなどないだろうという嫉妬心も内包している。

貧乏な家に生れながらも、大成した人は多いかも知れない。しかし、私はどうしても、貧困の連鎖は確かにあると考えてしまう。私よりも中学時代成績の悪かった友人が、十数年ぶりで逢うと医師になっていた。もちろん本人の大きな努力の賜物だろうが、貧しい家庭に育ったら初めから医師になろうと考えただろうか?

こう書いていて、悍ましい自分に呆れている。何とひねくれた考え方だろう。自分の貧しさを、親のせいにしている。それなら貧しかった父も母も、明治生まれの両親のせいにするだろう。貧困の連鎖は、どこかで断ち切らなくてはならない。遥か昔に、「貧乏人は麦飯を食え!」と言った総理大臣がいた。しかし、その後日本の経済は飛躍的に向上した。貧困の連鎖の終焉は、個人の力では限界があり、それはやはり政治の力が重要なのかも知れない。

ところで、私のような、特化した知力も財産もない人間は、どう老後を生きれば良いのだろうか?生きる意味などあるのだろうか?こんな私でも息子たちには必要かも知れないが、私自身の生きる意味とは何なのか?私には思い浮かぶ言葉が見つからない。老後に、決して明るい見方が出来ないのは、ひねくれているのか、あまのじゃくなのか、それとも単なる怠け者なのか?     つづく

原料香月の作詞の小部屋 お問い合わせ


ブログカテゴリー

月別アーカイブ

ページトップへ