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課題テーマに挑戦「銚子港」第11回

2023年06月30日

 課題テーマに挑戦「銚子港」第11回

現在は、6月30日の午後9時25分です。あと数時間したら、7月になってしまいます。

私は、最低月2回のアップを目指しておりますので、何とか今日中にこのブログをアップしたいとパソコンに向かっています。まだ、夕食は摂っておりませんが、このブログをアップしてから頂くつもりです。

ロシアのプーチン大統領ですが、強力なそして絶大なその権力も、少しづつ崩壊の方向に向かっているようにメディアは伝えています。プーチン大統領のウクライナ侵攻で、どれだけの血と涙が双方に流されたことでしょう。若い息子を戦死という人災で亡くされた母親の気持ちはいかばかりの悲しみでしょうか。

国際社会の叡智を結集して、今こそこの戦争を起こした者へ鉄槌を下す時ではないでしょうか?

話しは変わりますが、私は茨城県のつくば市に住んでおりますので、筑波山を見ない日は月に数日もないと思います。幼い頃より眺めているこの筑波山が私は大好きなのです。

下の画像は、早朝5時頃の筑波山です。朝日が幼い稲の苗に映り込んでいます。

次の画像は、厚い雲の奥にそびえる筑波山です。

もう夏です。でもまだ紫陽花は頑張っています。

薄紫色の小さな可愛い花です。

アイキャッチ画像は、散歩の途中で撮ったグラジオラスです。

  物語  想い出の銚子電鉄外川駅(第4話)

私は、父と兄に、東京の叔父の会社で働かせて欲しいと告げた。ただし、三年間だけ東京で過ごした後は、またここ銚子に戻り、生涯をキンメダイ漁の漁師として生きて行くことを約束した。

私なりに考えに考え抜いた結論だった。確かに今の私は、キンメダイ漁に自信を失っているのは事実だ。

だが、それは私の心が曖昧だからだ。恥ずかしいことだけれど、美咲ちゃんのことが気になって仕方がない。それが、今の私の正直な気持ちだ。

父も兄も苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、私の三年間だけという言葉に父の表情も少し和らいだ様子だった。世間も知らずのまま、このまま片田舎の漁師で終わらせることに、父もいくらかの哀れを感じていたのかも知れなかった。

「必ず3年後には、きっと帰って来るんだな!」

普段は柔和な眼差しの兄の視線は、私の心の奥底を見据えているようかのような厳しい声だった。

私は喉に声が詰まって、ただ頷いた。

私の正直な気持ちは、その3年間の間に、美咲ちゃんと将来を誓い合いたかった。

二人に永遠の絆をもたらしてくれる3年間にしたかった。それに、大好きな美咲ちゃんの近くにいたかった。美咲ちゃんにいつでも逢える距離にいたかったのだ。

だが、それだけが全てではないのも事実だ。生涯、銚子の外川しか知らない人生は、私にとって何か、井の中の蛙大海を知らずのような、侘しさを感じずにはおられなかった。

日本の首都である東京で、3年間という短い期間であっても暮らしたかった。その経験は後の人生に何か大きな影響を与えてくれそうな気がした。少しの間でも日本の首都で生活し、何かを学び、それから外川に戻って漁師の人生として骨を埋めたとしても、きっと悔いのない人生になるような気がしていた。

もちろん、美咲ちゃんと一緒の人生が前提だ。

父は、あくる日にさっそく叔父に電話を掛けてくれた。叔父の会社も長い不景気から脱出し、少しずつ業績も上向いてきたようだった。今直ぐにでも人手が欲しいという状況ではなかったらしいが、それでも父の頼みには断れずに了承してくれた。父が電話を切るとき、叔父はひとこと言ったそうだ。

「兄貴の頼みだし、可愛い甥だから引き受けるけど、生半可な気持ちだったら辞めてもらうからね」

父は、曖昧な返事をせざるを得なかったらしい。

こうして、私の東京行きが余りに簡単に決まった。

あと数日したら、私は銚子電鉄外川駅から上京する。東京での生活には、もちろん期待と不安がある。

だが一番の不安は、美咲ちゃんとの将来の約束を果たせるか、正直一抹の不安を拭い切れなかったのも事実だった。

その頃、私が出した手紙の返事が美咲ちゃんから届いた。美咲ちゃんの手紙は既定の料金では足りず、数枚の切手が貼られていた。封筒は、はち切れんばかりに膨らんでいた。

【美咲ちゃんからの手紙】

翔ちゃん、お元気ですか?まだ、銚子から東京に来てひと月も経っていませんが、私は少しずつ東京での暮らしに、また大学生活に慣れつつあります。私が住んでいるのは、下町なのですが、通学以外では近くのスーパーにお惣菜やお野菜を買いに行く程度ですので、余り地理やその他諸々のことは良く分かりません。

アパートの住人は女性ばかりです。朝、良く顔を合わせる方が何人かいます。学生風で、とても感じの良い方です。そのうちお友達になりたいと思っています。

大学生活は楽しくて仕方ありません。私はアパートを7時過ぎに出て、大学には余裕をもって着きます。その余裕の時間を図書館や、大学の構内を散策しています。散策というより、小さな冒険です。下手に動き回ると、自分のいる所が分からなくなってしまうからです。

授業は、私はどの教室でも、前から3列目の真ん中辺りに座ります。先生の目に付きやすく、集中力を切らさずに頑張れます。

私の看護部看護学科は、当然女性ばかりかと思っていましたが、男子学生も何人か在籍しているようです。ただ、私のように養護教諭を目指している訳ではないようですが。

翔ちゃんには、まだ大切なことを話していませんでした。それをこれからお話しさせて頂きますね。

確か銚子電鉄観音駅で待ち合わせて、それから飯沼観音でお参りをし、銚子漁港第一卸売市場に向かう途中に話したことですが、覚えていますか?

両親とも教師の家庭で育ち、私も将来は子供たちに愛される立派な教師になろうと、物心がついた頃からそう思っていました。その気持ちは、高校2年生になる時まで続いていました。

もう直ぐ、銚子漁港第一卸売市場だという頃、私は翔ちゃんに言った言葉のことです。

「今の私は、クラスの担任ではなく、養護教諭になりたいの。それも外川中学校で養護教諭をしたいと思っているわ。翔ちゃんと、ずっと一緒にいたいから。そのためには、大学の看護部看護学科に入り、養護教諭一種免許を取りたいの。私もまだ大人ではないかも知れないけど、小さな子供たちのことを沢山学んで、無事卒業するまで見守りたいの!」

そう言いましたよね。このように何故私の心がある日を境に変わったのかを、翔ちゃんにはまだ話していませんでしたよね。電話ですと上手く話せないので、この手紙で伝えたいのです。

それは、私が高校2年になったばかりの頃に、父の妹、つまり私の叔母が私の家を訪問した日から、その日から、私の今までの考えが大きく変わったのです。

私の叔母は関東のある都市で、公立中学の養護教諭をしています。叔母の名は渡辺美智子と言います。叔母がある日、私の家を訪れまして、私の両親に養護教諭を辞めようか悩んでいると、相談に来たのでした。

叔母は、とても憔悴し切っているように私には見えました。

私は、もちろん養護教諭の存在は知ってはおりましたが、健康診断の時だけのイメージしかなく、何故わざわざ私の家を訪れたのか不思議に思いました。この日の叔母の訪問が、私の心に大きな転換をもたらすことになるなど、夢にも思わぬ出来事でした。

叔母は、私に言いました。

「美咲ちゃん、あなたも将来、教師になる夢を持っているのでしょう?教師という仕事は尊い仕事だし、素晴らしい職業だと思っているわ。でも、外から見るほど、楽しいことばかりでもないのよ。

私も養護教諭をしているけれど、とても苦しいことも沢山あるのよ。

今日は、美咲ちゃんのご両親に養護教諭の仕事を辞めようかとご相談に来たんだけれど、あなたのこれからの為にもなるかも知れないので、傍で聞いていて欲しいの。

それに養護教諭というお仕事にも関心を持ってもらえたら嬉しいと思って」

そう言う叔母の眼は、心なしか潤んでいるように見えたのでした。

私は、邪魔にならないように、隅のソファーに腰を下ろしました。

養護教諭という仕事の重要性を、そして如何に大切な仕事であるかについて、私の両親は当然知っていることでも、無知な私のために、基本的なことから叔母は話してくれたのでした。

叔母の話しの要点を記して見ますね。翔ちゃん、翔ちゃんにはあまり興味のない退屈な話しかも知れません。でも、私がもしこの仕事に就いて、そして私と翔ちゃんが将来一緒に暮らした時に、私が疲れて帰って来たときや、翔ちゃんが私に小さな不満でも持った時に、これからの話しを思い出して欲しいのです。だから、しっかりと読んでくださいね。

叔母の話し その①

「小学校、中学校そして高校での養護教諭の数は法律で決まっています。

小学校は、児童の数が850名までは養護教諭は一人、中学校そして高校では生徒の数が800名までは一人です。つまり児童・生徒の数がそれ以上にならなければ、どんなに仕事が大変でも一人で養護教諭の仕事を全うしなければならないのです。

養護教諭の仕事は、ここ数十年で大きく変わって来ています。その辺の難しい話しは後回しにして、今、私が悩んでいる事実についての話しを聞いて欲しいのです。ある事件が起こり、私にもその責任の一端があるように感じ、責任を取って退職しようかと悩んでいるのです。私を責める言葉は、学校からも教育委員会からも聞こえては来ませんが、私の良心が『お前は、何事もなかったかのようにこれからも養護教諭を続けていくのか!と叫ぶのです』

翔ちゃん、翔ちゃんは、優しい両親とお兄さんに大切に育てられ、こうして立派に成長したけれど世の中には、真っすぐなレールの上を走る人ばかりではないようです。翔ちゃんも私も、今までの生活が当然だと思っていますが、それはとても幸せなことだと、叔母の話しを聞いて思いました。

翔ちゃんも、私と同じように感じて頂けたら嬉しいのですが。

今の私の辛い出来事を話しますねと、叔母は私の方を見ながら言いました。その目は、私に真剣に聴いて欲しいとの意志が感じられました。

「中学2年生のA子ちゃんは、いつ頃からだったか時々保健室に来て、体重計に乗ると直ぐに帰っていきました。顔色が悪いとか、特に不自然に感じることはありませんでした。ですので、日誌にも記入しませんでした。日誌に書くことは、他にも沢山あり過ぎるからです。

A子ちゃんは、特に肥満でも痩せすぎでもなく、何も心配する必要はないのにと思いました。思春期の生徒には良くあることなので、私は気にしなかったのです。

ですが、ある時から、保健室に毎日のように現れるようになりました。何となく顔色がさえず、心なしか体重が減ったような感じがしました。それでも、私に声を掛けるでもなく、ただ体重を計り、直ぐ帰っていくのです。私は、以前にも似たような女子生徒がいたような気がしました。私は、確信は持てませんでしたが心配になり、ある日A子ちゃんに話しかけてみました。

『どうしたの?体重がそんなに気になるの?A子ちゃん、最近、少し痩せたような気がするけど』

叔母は、何かの返事を期待していたそうですが、何も答えてくれず、次の日から保健室には来なくなったそうです。

叔母は、担任を通して母親との面談を行いました。

仕事が終わってからという約束だったので、叔母は7時過ぎまで事務整理などをして待ちました。やがて現れた母親と、誰もいない教室の隅の椅子に腰を掛けました。この時の座り方は、カウンセリングポジションと言われる90度型に座りました。適度に視線を合わせたり、そらしたりも出来るリラックスできる座り方です。

『あのう、実はですね。A子ちゃんのことなんですけど、ご家庭で何か変わった様子とかはありませんでしょうか?』

A子ちゃんの母親は、少しでっぷりした体形で、A子ちゃんについての質問だったにも関わらず、何か面食らった顔をしてたじろいだ様子だった。

『あのう、主人は小さな会社ですが課長をしていていつも帰りが遅いのです。それに私も働いています。私は派遣社員なので、残業をと頼まれれば断れません。ですので、二人とも帰りが遅くなることがしょっちゅうです。家のローンもあり、仕方がないのです。

A子には気の毒ですが、もう中学生ですから我慢して貰うしかありません。夕飯の食事代は足りなくないようにちゃんと渡しています。

それにA子は何一つ不満など一度の言ったことがありません。正直、娘に構ってやる時間などありません!』

A子ちゃんの母親は、親としての役目は果たしているし、なにも心配などある筈がないという態度だった。

母親の言葉に多少問題ありと感じた私は思っていることを話しました。

『これは、私の思い過ごしかも知れませんが、A子ちゃんは、≪摂食障害≫ではないかと心配しているのです。少し前まで、毎日のように体重を計りに来ていました。特に最近は妙に体重が落ちて来ているように見受けられます。

私が、体重計を覗き込みますと、直ぐ体重計から降りてしまいますので、具体的な数値は承知してはおりませんが。

でも、A子ちゃんがもし摂食障害だとしたら、何か原因がある筈なのです。A子ちゃんは、多分ストレスを抱えているのだろうと思うのですが、何か心辺りはありませんか?』

A子ちゃんの母親は、私の言葉に腹が立ったようでした。

『何も心当たりなどありません。A子がストレスを感じることなど思い付きません。仕事で疲れていますので、これで失礼します』

A子ちゃんの母親に対し、私がまだ話の続きをしようとしましたが、立ち上がり軽く会釈をして帰ってしまいました。

それから、私はA子ちゃんのことが気になってはいたのですが、他にも気遣わなければならない生徒が何人もいて、また毎日の業務に翻弄され、A子ちゃんに連絡をすることもなく時間だけが過ぎてしまいました。

ある日の朝、私が通勤のため家を出ようとしたら、玄関先の電話がいきなり鳴ったのです。

夫は心当たりがあるらしく、急いで電話に出ましたが、靴を履いたまま立っていた私に焦った様子で言いました。

『美智子、お前だった。高橋先生と言っていたよ』

私は、嫌な予感がしたまま電話に出ると、A子のちゃんの担任の高橋先生でした。高橋先生は、とても動揺していて、いや興奮していて、何を話しをしているのかさっぱり要領が得ないのでした。

『先生、落ち着いて下さい。何があったんですか?どうしたんですか、こんな時間に』

高橋先生は、やっと我に返ってくれて、話しの要件が理解出来たのです。だが、私の顔色を窺っていた主人は、裸足のまま玄関に飛び降り、私の両肩を支えてくれました。私は、余りの出来事にその場に倒れそうだったのです。

『どうしたんだ!美智子、しっかりしろ!』

夫の呼びかけに、私も我に返りました。

『高橋先生の担任の女生徒が自殺未遂を起こしたらしいの!』

夫は自らの勤務先に電話して『今日は、急用が出来ましたので休ませてください』と上司に告げ、『美智子、今日は私が学校まで送るから、私の車に乗りなさい』と言ってくれました。

学校に着くと校長先生や教頭先生学年主任が校長室に集合していたのでした。もちろん高橋先生が輪の中心でした。

高橋先生が母親から聞いた話しだと、昨夜も両親揃って9時過ぎの帰宅だったそうです。2階から明かりが漏れていたので、両親は勉強でもしていると思い、そのまま遅い夕食を済ませたそうです。10時頃、父親がお風呂に入ろうとした時です。父親は驚愕したそうです。

何故なら、お風呂場の床が血で染まっていたからです。でも、A子の姿はありませんでした。

『A子が大変だ!』」

父親は下着姿のまま2階のA子の部屋に飛び込むと、制服のまま手首から血を流し、うつぶせに横たわっているA子に気付きました。

『救急車を呼べ!急げ!』

父親は階段の下に向かって叫びました。母親は、訳が分からずに2階に上がって来たそうですが、A子の姿に腰を抜かさんばかりに驚き、階段から転げ落ちそうになりながら、119番通報をやっとしたそうです。

救急病院に搬送されたA子ちゃんは、それでも傷が意外と浅く出血も致命的とならなかったとのことでした。

今朝早くA子ちゃんの父親から連絡を受けた高橋先生は、校長と教頭、そして私に電話をしたそうです。

高橋先生の話を聞いた校長先生は、教育委員会にとにかく報告し、事後の対策については指示を仰ごうということになったのでした。

でも、今は学校の誠意を見せることが今後の展開には欠かせないと、今日の内に校長と教頭、それから担任の高橋先生、そして私と4人で見舞いに行くことになったのでした。

午後の面会の時間早々に、病院の受付に姿を現した校長たちはA子のいる部屋を聞き、急いで病室に向かいました。

病室をノックすると、中から女の声で『どうぞ』」と返事があり、四人は頭を下げつつ、A子ちゃんの部屋に入ったのでした。部屋は大部屋ではなく、個室でした。

A子ちゃんは、眠っていました。睡眠薬を処方し、主治医は心が落ち着くまでは寝かせておくつもりのようでした。

『この度は、どうも何と申し上げて良いものやら、言葉が見つかりません。とにかくA子さんの命の心配はないと聞き、安堵致しました。

私たちに出来ることは、極力努力させて頂きますので、何なりとお申し付けください』

校長が、母親に声を掛けると、母親が切り出した。

『校長先生ですか?この度はA子がご迷惑をお掛けし申し訳ありません。ですが、校長先生、私らのせいでA子がこんなことをしでかしたとは、思えません。はっきり申し上げると、学校の方に何か問題があったのではないのですか!何か手落ちがあったのではないんですか? 」

大きな母親の声に、通りかかった看護師が声を掛けた。

「大きな声で話されては、患者さんが目を覚ましてしまいます。面会室にご案内しますので、そちらでお話しして下さい。ただし、面会室でも他の患者さん達がいますで、静かにいて下さいね」

そう言うと、看護師は先に立って面会室まで案内してくれました。

看護師の姿が見えなくなると、A子の母親は感情を抑えているのか、真っ赤な顔をしてまた話し出したのです。

『担任の高橋先生でしたね。A子が虐められていたとか、仲間外れにされていたとかはなかったのでしょうか?私には、学校側に問題が、いや責任があったとしか思えません。学校側の対応次第では、私ら夫婦は裁判も視野に入れています。ちゃんと謝罪し、それ相応の誠意を見せて貰えないなら、私らは学校を決して許しません!』

母親の憎しみさえ込められた話し方に、校長は頭を下げながら言った。

『お母さん、A子ちゃんの今回のことについては、まだ何も分かってはおりません。謝罪をしろ、誠意を見せろと声高に言われましても、私たちには今の段階では申し訳ありませんが、返答のしようがないのです。今日は、これで失礼しまして、教育委員会との相談の上、また改めて伺わせて頂きます』

校長の言葉に、全員で母親に一礼して、病室を出ました。

『困ったことになりましたね。校長先生、これからどうされますか?』

玄関を出ると、教頭は薄くなった頭髪に手をやり、眉間にしわを寄せながら独りごとのように言ったのでした。

その日の内に、市の教育委員会の委員長を始め数名が中学校に集まり協議したのでした。

委員長が、高橋先生に向かって先ず声を掛けたのは当然かも知れません。

『高橋先生、今回の事件について、予兆というべき事項などありましたか?あるいは、クラスでのいじめとかに気付いてはおられませんでしたか?」

高橋先生は、顔を真っ赤にして答えました。

『私は、正直A子が今回のような事件を起こすとは予想もしておりませんでした。成績は良い方とは言えませんが、特に目立ったことはありませんでした。いじめなどは一切なかった思います。月に一度ですがアンケートを取り、いじめやその他些細なことでも記入するよう、クラス全員に書かせています。私のクラスの子供たちからは、全くそのような声はありませんでした。

ただ、一つ気になったことと言えば、最近良く保健室に体重を計りに行っていたようです。思春期の生徒は体重を気にすることは珍しくもありませんので、気にはしてはおりませんでした。

ただ、養護教諭の渡辺先生から、もしかしたら”摂食障害の疑い”を心配され、一度母親と話をさせて欲しいと頼まれたことがあります』

 

翔ちゃん、ごめんなさい。充分間に合うと思っていた便箋が、もうこれが最後の一枚になってしまいました。

これからが、私が「養護教諭」になりたかった本当の核心の部分に触れて行くところでしたのに残念です。

明朝、近くの書店で便箋を購入し、明日中には翔ちゃん宛てに送ります。

携帯電話だと、どうしても上手く伝えられず、また自分を飾ってしまいそうですので、やはり手紙にします。

元気でキンメダイ漁、頑張ってくださいね。近いうちに実家に帰ります。その時にまた話し合いましょうね。さようなら。  

 

美咲ちゃんからの手紙は、まだ途中のようだった。次回の手紙が届くまで、美咲ちゃんの養護教諭への心の変遷の訳はしばしお預けだ。

ここまで読んだ私は、養護教諭という仕事は、人の命にまで関わる大変な仕事だということに初めて気付かされた。

次回は、美咲ちゃんの手紙が届き次第、また続けさせて頂くことにする。         つづく

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