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創作の小部屋「函館物語」第4回

2022年02月07日

 創作の小部屋「函館物語」第4回

今朝の某新聞の一面の記事は、北京冬季五輪で日本人勢初の金メダルを獲得したというもので、その選手の大きな写真と共に載っていました。それは、日本人にとって名誉なことに間違いありません。

ですが、手放しでは喜べません。オリンピックは平和の祭典と言われます。ですから開催されるということは、世界が平和だということになるわけです。本当にそうでしょうか?世界中に対立が溢れているように思えるのですが?

オミクロン株の急激な拡散は、特に高齢者を不安に陥れます。高齢者の楽しみ(歩く会・体操教室・カラオケ教室・その他のスポーツなど)の機会が奪われます。私は、近くの農道を一人で散歩するのが唯一の楽しみとなりました。

散歩していると、いろんな風景が楽しめます。遥か遠くまで施されたビニールハウスの中では白菜が育っていました。

それでは、さっそく「函館物語」第4回に入りたいと思います。アイキャッチ画像は、はまなすの花です。

  創作の小部屋「函館物語」第4回

第4章 立待岬でのデート

 

私は、昨夜は熟睡できなかった。真知子さんと二人だけの時間を過ごせるということが、まるで世界には私と真知子さんだけが存在しているかのような気持ちだった。少しまどろんだかと思うと、また目が覚めた。明日、寝不足の顔を見られてしまうと思ったら、よけい眠れなくなった。

函館駅前から、3分くらい歩くと市電の「函館駅前」駅に着いた。約束の時間は、10時だったが30分も前に着いた。今日は、薄緑色のポロシャツの上に、少し厚めの白いセーターを着込み、スラックス姿にした。昨日帰りにバスで真知子さんと別れてから、五稜郭の商店街の洋品店で、中年の店員に相談して勧められたものだ。私には、服を選ぶセンスは全くない。

真知子さんは、時間通りにやってきた。昔、東京で働いていた頃、デートでは10分遅れて来るのが女性のマナーだと聞いたことがある。私は、田舎者だ。マナーなんかより、憧れの人に早く逢いたい。時間通りに来た真知子さんの方が、人間として優れていると思った。

もう今日は、5月の半ばだ。天気予報によると18℃を超える陽気のようだ。真知子さんは、刺しゅうを施した茶系のワンピースに、それよりも濃い色のカーデガンを羽織っている。右腕には、やはり薄い茶系のバックを下げている。ネックレスもしないし、ピアスもしていない。だが、良家のお嬢さんだと私にも分かる雰囲気を醸し出している。それから、ハンドバックよりも少し大きめな竹の籠も持っていた。

「今日、お天気に恵まれたのは、晴彦さんの普段の行いが良いせいね!」

真知子さんは、私が緊張しているのに、天真爛漫だった。暫くぶりの外出に心が躍っているようだ。市電は時間通りにやって来た。先に乗った真知子さんは、二人が座れる席を用意してくれた。私は真知子さんの左側に座り、竹の籠を預かった。

 

何分かすると「青柳町」という駅に着いた。ここが、石川啄木の詠った青柳町だと思うと、高校の通学時に鞄から出して読んだ昔を思い出した。

 函館の青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花

当時、日日新聞の遊軍記者であった啄木は、函館大火に遭い、職も失った。その頃に詠んだものなのかも知れないと、私は根拠のない推測をした。真知子さんが隣にいるのに、不謹慎にも啄木への追憶に浸っていた。青柳町は、函館山の山裾にあるためかなだらかな坂道が多かった。

私は右手の竹の籠を持ち替えて、青柳町を過ぎた頃、真知子さんの左手をそっと握った。真知子さんは、気付かないのか、海の方に目をやっていた。そろそろ谷地頭かと思うころ、真知子さんが言った。

「私、今日、お弁当を作ってきたのよ。偉いでしょう?晴彦さんが持っているのが、そのお弁当よ。良い匂いがしない?」

そう言いながら、私と繋いだ左手に少し力を入れた。

「早く起きて作ったんでしょう?僕も食べていいの?」

私が言うと、真知子さんは少し頬を膨らませて言った。

「さっき、何か考え事をしていたでしょう?私には、晴彦さんの考えていることが分かるのよ。多分、あなたが大好きな石川啄木のことでしょう?」

私は少し困ってしまって、素直に「ゴメン」と謝った。以前バスの中で「函館というと、石川啄木が浮かぶ」と言ったことがある。啄木の滞在した北海道の街をいつか訪れたいと思っている、とも確かに話したことがある。

「私、啄木に嫉妬しちゃう。お弁当、上げるのよそうかな~」

私は驚いた。真知子さんにもこんなお茶目なところがあったのだ。真知子さんは、ニコニコしながら私に向かい、また頬を膨らませた。その仕草が可愛かった。

間もなくして、谷地頭の駅に着いた。

 

私と真知子さんは、手を繋いで歩いた。途中、立派な家の庭などを見ながら、二人で楽しく歩いた。約1キロも歩いただろうか?坂道を登っていくと、両側にお墓が並んでいた。その中に「石川啄木一族の墓」と書かれた柱が立っていた。

 

啄木は、函館で亡くなったのではない。啄木の終焉の地は、現在の東京都文京区小石川だ。啄木は、物心両面で支えてくれた函館の歌人・宮崎郁雨に宛てた手紙の中で「おれは死ぬときは函館に行って死ぬ」と書いたという。故人の遺志を尊重し、宮崎郁雨が中心となって、この地に墓を建立した。何かでそう読んだ記憶がある。

私と真知子さんは、立待岬に急いだ。今日は、真知子さんと二人だけの世界だ。それ以外は、今日はもう考えないことにした。

坂道を登りきった先には、海に突き出る形で海抜約30mの断崖がそそり立っていた。立待岬に着いたのだった。目の前には、津軽海峡が広がっていて、遠くに陸地が見えた。海面からの距離のせいか、不思議に波の音は聞こえなかった。

 

「晴彦さん、今日は天気が良いから、下北半島があんなに近くに見えるわ。本当に、晴彦さんは幸運だわ。こんなに美しい津軽海峡は、めったに見られないもの」

真知子さんが、下北半島を指さしながら言った。決して冷たいという程のことはないが、真知子さんの後れ毛が風になびいていた。私は、この岬の美しい風景を、真知子さんと一緒に見られる喜びに震えた。

「少し先にベンチがあるの。そこでお弁当を食べましょう」

真知子さんはそういうと、私の手を引くように岬の端に歩きだした。何度か家族で来たことがあるという真知子さんは、何でも知っていた。

 

静寂ではあるけれど、まるでウィーン国立歌劇場におけるクラシック演奏会の主賓席にでも座っているかのようだった。目の前に広がる津軽海峡、沖には海峡を行き来する船舶。これが青春を謳歌するということなのか?東京で働いていたとき寮母さんが言った、また真知子さんの母親が言った「青春を謳歌する」とは、こういうことなのか?

この日は多くの会話をし、とても幸せな時間に私は酔っていた。腕時計を見た。とても時間の流れるのが早い。このまま、時よ止まってくれ!私は心の中で叫んだ。

真知子さんとの二人だけの幸せが永遠に続くものと、私はそのとき信じていた。     つづく

 

〖あとがき〗今回は、「立待岬」にベンチに座ったところまでですが、次回はもう少し具体的な話の内容を記したいと思います。次回、主人公の「私の心に未来への微かな不安が芽吹き始めた」とは、どういうことなのでしょうか?

画像の出典ですが、ウィキペディア様から以下の①立待岬の碑②函館バス③谷地頭駅④石川啄木一族の墓まで、計4点をお借りいたしました。また、函館市公式観光情報さまからは、文中最後の2枚①立待岬②立待岬から津軽海峡を一望、この2点をお借りいたしました。有難うございました。

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