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課題テーマに挑戦「音戸大橋」第4回

2020年01月19日

 課題テーマに挑戦「音戸大橋」第4回

課題テーマ「音戸大橋」も今回で4回目となります。皆さんは、「開削」という言葉をご存じでしょうか?私は、長い間生きてきて、何とも恥ずかしいことに、この「音戸大橋」の情報収集の過程で初めて知りました。

(みんなで作る土木用語辞典より)
開削(かいさく) 土地を切り開いて道路や運河などを通すこと。「新道を―する」

音戸の瀬戸は、平清盛が開削したとの伝説があるということから、「開削」と言う言葉を知りました。瀬戸とは、特に幅の狭い海峡と言う意味だそうです。下の画像は、第二音戸大橋架橋前の音戸の瀬戸です。(国土交通省より)

≪清盛の音戸の瀬戸開削の目的≫

永万元年(1165年)旧暦7月10日に完成した平清盛が開削したと言われる伝説によると、この海峡はつながっていて、厳島神社参詣航路の整備として、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など諸説言われています。

「音戸の瀬戸」の長さはおよそ800m、幅はわずか90m、潮の流れの速さと行き交う船の多さで知られています。画像は、音戸の瀬戸を片道3分で結ぶ日本一短い航路の「音戸の渡し船」です。運賃は大人100円、小人50円とのことです。一度乗船したいものです。

≪清盛の日招き伝説≫
工事はあと少しで完成しようとしていたが、日は沈み観音山の影に隠れた。そこで清盛は山の小岩の上に立ち金扇を広げ「かえせ、もどせ」と叫ぶと日は再び昇った。これで工事は完成した。沈む夕日を呼び戻し、1日で開削したとする伝説です。

平清盛公は、人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈め,難工事を完成させたそうで、元暦元年(1184年)その功徳をたたえ,その供養のために清盛塚が建立されました。中の宝篋印塔は高さ2.05mで室町時代の作ということは歴史的に確定しているそうです。塚内のクロマツは「音戸の清盛松」と呼ばれ、伝承では枯死したものを1719年(享保4年)植え替えたと言われています。現在は護岸と接していますが、かつては独立した小島だったそうです。

音戸の瀬戸が平清盛による開削との伝説の真偽については、古くから疑われているようです。その根拠として、当時の朝廷の記録及び清盛の記録には、この工事のことが全く記されていないということが一つです。また二つ目として、地理学的にも、そもそも呉市にある本州と倉橋島は繋がっていなかったという説があります。

地元呉市に於いては、この「平清盛による音戸開削」の伝説は事実として語られているそうですが、私もその方がロマンを感じます。

今回アップさせて頂きました画像は、1枚目の「音戸の瀬戸」・3枚目の「音戸大橋」・4枚目の「音戸大橋と音戸渡船」の3点はウィキペディア様より拝借させて頂きました。5枚目の「平清盛と音戸の瀬戸」は広島観光ナビ様からお借りいたしました。厚く御礼申し上げます。

次回の第5回「音戸大橋」ですが、まだどういう内容にするか決めておりません。作詞のタイトルも「音戸生まれの私の自慢」「瀬戸の音戸の渡し船」など考えてみましたが、ストーリーも全然浮かばず、もう少し時間を掛けて少しづつ作詞作りに近づけて行けたらと思っています。

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