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課題テーマに挑戦「音戸大橋」第5回

2020年01月26日

 課題テーマ「音戸大橋」第5回

年が明けたと思いましたら、1月もあと数日で終わりです。いつものことですが、月日の経つ速さに付いて行けず、ただ齢だけを重ねています。

本題に入ります。昨年の暮れから「音戸大橋」をテーマとした作詞のため、今現在情報を集めている段階ですが、嬉しいことに、先日ある方からメールにて情報を頂きました。その内容を公開することはその方に対し失礼かと思いましたが、とてもこの作詞作りには大切な内容が記されておりますので、敢えて記載させて頂きたいと考えました。

その方は数十年前に呉市に住まわれた方で、遠い日の記憶を紡ぎながら平日にも拘らず、明け方の3時25分にメールを送って下さいました。この後、束の間の仮眠に就き、お仕事に向かわれたことでしょう!何と有難いことでしょう。私には、その真似はできません。真摯にこの作詞作りに向かうことで、その方の真心に応えたいと思います。(アイキャッチ画像は、音戸の瀬戸公園から撮られたものです)

   メールにて音戸の情報

呉の音戸の瀬戸について紹介しようと思っていざ書き始めましたら覚えていることは僅かです。随分昔のことでほとんど忘れていることに改めて気づきました。参考にもならないと思いますが、僅かな記憶に残っていることを思い出しながら記しておきます。

1、呉の町は、JR山陽本線から離れ、呉線になります。明治以降海軍の町として繁栄しております。聞いていることでは山と海がすぐ側であり海は深い海、周囲に島があり囲まれていることで軍艦の港に適していたようです。

2、呉の近くには遠浅の海岸はなかったように思います。

3、戦後海軍基地は海上自衛隊の基地になり、海軍工廠は民間に払い下げられ、造船所、製鉄所などの民間の工場となっています。

4、そんな中で音戸の瀬戸は数十年前、私が住んでいた頃は多くの島や海景色の景勝地、瀬戸の音戸大橋と桜の名所、地元の人の憩いの地として知られ、行楽地になり度々話題になっていました。

5、音戸地区は丘の上から眺める瀬戸や遠くに見える島々がいくつもあり、国立公園になって、呉の名所と言われていたように思います。

6、当時は倉橋島を結ぶ橋はループ状の1本だけであったがその橋の眺めは赤色で島の緑と対照的でありました。また橋の形状も当時は珍しかった。

7、たくさんの島と海、航行する多くの船でロマンチックな風景と言えます。平清盛の像も当時すでにあったように思います。海峡を開いたという話も本当だと信じていました。

8、音戸の瀬戸は若い恋人のデートの場所として考えられていたようです。彼女とデートするなら「音戸の瀬戸」でという話を何度も聞いていました。

9、丘の上には国民宿舎があり、遠くからも音戸の見学に来ていたようです。(現在国民宿舎はどうなっているかはわかりません)

10、桜の木がたくさんあり、3月終わりには多くの人が見学に行っていた桜の名所でもあった。

11、但し、呉市から行くためには警固屋の町を通り抜けることが必要であったが、当時1本の道路でいつも交通渋滞という話を聞いていました。実際長い車の列の記憶があります。

12、周辺の海、島では魚やアワビが豊富に取れていた。休日には魚釣りという人が多かった。フィッシングは呉のレジャーでもありました。

13、音戸大橋の下は大小合わせていつも多くの船が往来していました。中には水中翼船と呼んでいたと思いますが、しぶきを上げ、白波を残して走る高速艇も走っていました。よく衝突しないなと感心していました。

14、大きな船は大きな波を残し岸壁に波が打ち寄せていた。小さな船は大きな波が来るたびに揺られていたように記憶しています。

15、音戸という名前は呉(あるいは広島)と大阪を結ぶ寝台急行の名前にもなっていました。私は何回か寝台急行「音戸」(3段ベッドで窮屈でした)に乗っていました。

16、私自身は呉市の背後にある約700メートルの高さの山や音戸に近い300メートルくらいの休山にハイキングすることが好きで度々登り、そこから呉市街地や音戸の瀬戸、倉橋島、江田島の眺望を楽しんでいました。

 

以上のように、とても長いメールでした。私が惰眠を貪っている時に、私の作詞作りのために尊い時間を費やして下さり、本当に感謝の気持ちで一杯です。きっとこの情報を活かして、少しでも喜んで頂けるよう頑張る覚悟です。有難うございました。(最後の画像の「音戸大橋」はウィキペディア様よりお借りいたしました)

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