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創作の小部屋「独居老人のひとり言」総集編

2019年07月28日

 「独居老人のひとり言」総集編

3月28日から書き始めました「独居老人のひとり言」も昨日で最終回となりました。ちょうど4ヶ月が経ちました。このHPは作詞を勉強するためのものであり、このような物語を書くために立ち上げたものではありません。

ですが、つい息抜きというような意味合いで書き始めてしまったのですが、こんなに長くなるとは予想だにしていませんでした。予めストーリーの構想もなく、書きながらの流れでこんなに長い物語となってしまいました。

この総編集では、第1回から昨日の最終回までを網羅いたしました。(画像は福岡県の桜井二見ヶ浦の夫婦岩です)

  「独居老人のひとり言」総集編

序章 中学卒

私は中学しか出ていない。特に勉強が嫌いな訳ではなかった。強いて言えば、私はどっちかというと勉強が出来る方だった。

私には3つ上の姉がいるが、この姉は私など問題にならないくらい勉強が良く出来た。私の記憶にある姉は、家の農業を手伝っている時か、炊事や掃除をしている時以外はいつも勉強していた。

私が小学校の4年生の夏の時のことだから、今から60年近くも前のことになる。当時、私の家の裏庭にはぶどうの木があり、薄緑のぶどうがたわわに実っていた。姉はその裏庭に小さな机を向けて勉強していた。私は悪戯心でそっと姉に近寄り、「わっ!」と大きな声で驚かした。勉強に集中していた姉は、烈火のごとく私を怒った。

いつも勉強している姉だから、通信簿には5の数字ばかりが並んでいた。姉が中学3年のとき、世間では正月の気分もやっと抜け出したと思われる頃、姉の担任の教師が家にやって来た。土間の板の間に腰を降ろし、教師と父親は何やら話し合っていた。姉と私は、畳の部屋で二人の話を聞いていた。母は話には加わらず、静かにことの成り行きを見守っていた。

小学生の私にも、話の内容は理解できた。教師の話しを要約すると、姉がこんなに成績が良いのに高校に進学しないのはもったいない。ぜひ、高校に行かせて欲しいというようなことだった。教師も私の家が貧乏なのを知っているので、奨学金の話しも熱心に説いた。

昭和30年代の田舎の農家はどこの家も貧しく、男も女も中学だけで就職する者が大半だった。まして女は、無理してまでも高校に行かせることは無いというような封建時代の風潮がまだ残っていた。

担任の教師が奨学金の話までし、何とか高校へ行かせて欲しいと熱心に説いたにも拘らず、両親は姉に就職を強要したのであった。姉の話しを聞いた担任の教師は、2度3度と家にやって来たが、父親は苦虫を噛み潰したような顔をし、教師に頭を下げて、感謝の言葉と意に添えない不甲斐なさを詫びていた。

貧乏とは、辛いものである。この頃だったと思うが、中学生の姉と私が同じ日に音楽の授業があった。私のクラスの者はハーモニカを持参するよう、担任の先生から言われていた。当日、家に一つしかないハーモニカを引き出しから持って学校に行こうとしたが、姉に取り上げられた。学年トップの成績優秀の姉が、やはり使う筈のハーモニカを持たずに、音楽の授業に出ることは所詮無理な相談だった。私は、大きな声で泣いたのを覚えている。

姉についての結論を言うと、姉は家の状況を理解していたので、涙を飲んだ。いや正しくは、初めから諦めていたのである。

ここまでの話で、私が何故中学しか出ていないのかおおよそ理解して頂けることと思う。もちろん奨学金のことは、姉の中学の担任の先生の話を覚えていたので知ってはいた。けれども、貧乏という匂いは、ハーモニカの件だけでなく、意識と体に染み込んでしまっていて、姉と同じように諦めていた。でも、多少負けず嫌いの私は、クラスで3番から5番位の間でそれなりの成績は残していた。確かに、この頃になるとどこの家の生活も少し良くなり、進学するものも大分増えては来てはいたが。

 

第1章 妻との結婚そして死別

私は、近くに新しくできたゴム製品の製造工場の工員となって働くことにした。父親の勧めでもあった。姉の時とは違い私の成績からして、特に担任の教師が家に来て進学を勧めるようなことは無かった。

私は中学卒という学歴を特に恥ずかしいと思うようなことは無かった。何故なら、周りは皆同じような人たちばかりだったからだ。日勤と夜勤の交代勤務も、10代の若い自分はたいして苦にもならなかった。ただ、朝の自転車での通勤時に、中学の時の同級生が制服を着てさっそうとバス停に向かう姿に出来わすときは、何故か下を向いて通り過ぎた。

働き始めて5~6年たった頃だと思うが、今は亡くなった二つ年下の妻と職場で知り合い、2年付き合ってから結婚した。二人とも若すぎたが、双方の親も許してくれた。妻は、私が夜勤の時はいつも美味しい弁当を作ってくれた。とても幸せだった。家を持とうねと二人で決意し頑張って働いた。

その甲斐あって、それから8年後に小さな建売住宅を購入した。60坪の土地と27坪の家は、二人の愛の住処となった。建売住宅は田舎のことなので思ったよりも安く、その家のローンの支払いも二人で働けば十分楽に返せた。子供は家を購入した翌年に、男の子が生まれた。この時代には珍しく、工場の責任者は6ヶ月の育児休業を許してくれた。この頃の私は、多分妻も同じだと思うが、幸せの絶頂だったと思う。私は、妻を愛していたし、子どもの育児にも真剣に関わった。妻の母親も、妻が働きだすと保育園の送迎など積極的に応援してくれた。

お気付きだと思うが、私はもうすぐ古希を迎える高齢者である。私が愛した妻は、私が還暦を迎える年、もう直ぐ定年退職という頃に病で亡くなった。癌であった。

私が言うのも変だけれど、妻はとても頭の良い人で、中卒にも拘わらず工場の事務職に抜擢された程だった。家では、忙しい仕事や家事の合間にはいつも本を読んでいた。

私には、医学のことは分からない。妻が、食欲がないと妙に瘠せ始めてから、近くの医院に行って何かの薬を貰ってきた。しかし服用しても一向に改善せず、それから1ヶ月も経った頃、バスで国立の病院に行き診察を受けた。その日は、検査の予約をしただけとのこと。私は、何かとても嫌な予感がしたのを覚えている。

数回の検査が済んで何日かたった土曜日の夕方、突然居間の電話のベルが鳴った。妻の担当医からの電話だった。妻は、2階の部屋で本を読んでいた。担当医は、妻がこの時間帯はいつも2階で読書をしていることを聞き出していたので、初めから私が電話口に出ることを予想していた。何日の何時に病院に来て欲しいということだった。検査の結果を詳しく説明したいとのこと。妻にはまだこのことは知らせないで欲しいという。メモを取り、電話を切った途端に眩暈がした。

それからのことは、私にはあまり記憶がない。担当医の説明にも、癌についての何の知識も持ち合わせていない自分は、ただ緊張しながら「先生にすべてをお任せします。何卒よろしくお願いいだします。」と、茨城弁の抑揚で下を向いて話すことしかできなかった。医師の説明も、帰りの車の中では殆ど覚えてはいなかった。ただ、妻の明子の今後の行く末に、暗雲が立ち込めていることは確かのようだった。

手術の前日、息子夫婦が遠い四国から飛行機で帰り、私の車で一緒に病院に向った。息子夫婦には、前もって病名を知らせておいたせいか、とても不安げだった。しかし、妻にはあくまでも秘密と固く約束した。3人でため息とも取れる小さな声を発した。

病室の妻は、ニコニコとしており、とても手術を明日に控えた者とは思えない姿だった。妻は、もともと私よりも人としての器が大きかった。そのお蔭で、どれだけ救われたか計り知れない。翌日の手術室に向う時も、笑顔で私たちに手を振った。

手術後いったん回復したかのように見えたが、半年後にまた体調を崩し、再入院となった。主治医の話しだと、癌は取りきれた筈だったが、目に見えない小さながん細胞が妻の体の中を駆け巡ったらしい。抗がん剤・放射線療法とその治療のせいか、髪の毛が抜け、頬はこけて、日に日に妻の体はやせ細って行った。私は、自分の体と取り換えることが出来たらと、何度家に帰ってから涙を流し続けたか知れない。

妻はやせ細って、次第に意識が遠のく状況を繰り返しながら、2ヶ月後に亡くなった。妻は、まだ意識がはっきりしているうちにと、私を枕元に手招きし、やっと聞き取れるくらいの小さな声で、私の耳にささやいた。

「お父さん、今までありがとうね。お父さんと一緒になれて幸せだった。結婚して本当に良かったと思っている。後悔したことなんか、一度も無かった。もし、私が死んでも長生きしてね。幸喜たち夫婦は田舎に呼ばないで、自由にさせて欲しい。ただ、お父さんが一人でご飯を作ったり、洗濯したり、ちゃんと出来るかそれが一番心配・・・。私の分まで、長生きしてね・・・。本当にありがとう!」

そこまで言うと、疲れたのか小さく深呼吸をし、微笑んだ。もう、思い残すことは無いというふうな、安ど感に満ちた表情をして、私の手を握った。妻の指は白く細かった。         

 

第2章 一人になって

妻が亡くなり、私は一人で生活することになった。新しい仏壇には、庭や散歩の途中の畦道に生えた草花などをまめに飾った。私は、夫婦の死についてなど考えたこともなかった。平均寿命といわれる80歳ころまでは、二人で楽しく生き続けられるものと信じていた。

妻は、「重要書類」と赤い字で張り紙した箱の中に、生命保険証書や預金通帳と印鑑そして年金手帳、また家の権利書などを、私がいつも使う本棚の引き出しに入れて置いてくれた。そのため、葬儀費用やその他の出費も、息子夫婦に迷惑をかけることは何もなかった。

しばらくは、妻の生前の笑顔や台所に立つ姿を思い出しては瞼を濡らしていた。こんな筈ではなかったと、何度も繰り返しつぶやいた。どちらかが死ぬという事態があった場合、もし選択権があるならば、私は迷わず自分が死を選ぶ自信があった。

昔、息子の幸喜が幼稚園から小学生の頃、よく喘息の発作を起こした。決まって夜中だった。掛かり付けの病院に電話して、救急外来に向う途中、いつも同じことを考えた。

この幸喜がもし病気で死ぬようなことになったら、そして神様が私の命と引き換えに息子の命を助けてあげてもいいよと言ってくれたなら、私は躊躇せずに、少しも恐れずに死を選ぶことが出来るだろう。もし、将来不良になったとしても、生きていてくれた方がどれだけ嬉しいだろう。

幸喜の喘息が収まるようになった頃まで、同じ思いを繰り返した。

私は、60歳の定年退職後から年金が貰えた。45年という歳月を会社に捧げたのだったが、年金の額は私一人でも贅沢は許されないほどで落胆せざるを得なかった。妻が生きていれば、年金生活も楽に生きて行ける筈だった。スーパーでの買い物も、生鮮食料品の金額を表示したラベルを張り替える時間に合わせ、遅らせて行くというようなことは考えもしなかったと思う。

年金制度というものは、今まで会社のために頑張って働いてきたのだから、これからの人生はお金のことは心配しないで、楽しい余生を送って下さいと国から頂けるものと安易に考えていた。現役当時に社会保険料を給料天引きだったことは知っていたので、もちろん預金が帰ってきたものだとも言えるとも思ってはいた。

とにかく、これから大きな病気をしたり、郁々は老人施設への入所することになるのかななどと考えると頭が痛くなるので、最近は考えないことにしている。

何度も言うが私は心から妻を愛していた。いや、今でも愛している。最近は、夜が怖いのである。いつも隣で軽い寝息が聞こえていた部屋の中は、私の息づかいの他は、何の音もせず静かすぎるのである。いつも妻の寝ていた枕の辺りに目をやり涙を流す、その繰り返しであった。        

 

第3章 息子夫婦からの贈り物    

妻が亡くなり2ヶ月が過ぎた頃だったと思う。不意に家の前に宅配の車が止まり、運転手が降りてきた。運転手は、小さな段ボールの箱を差しだしサインを求めた。早速、仏壇の前に座り、差出人の名前を捜した。それは息子の嫁の由美子からの物であった。開けてみるとカメラのようであった。

カメラには違いないが、どうも昔のカメラとは勝手が違っていた。説明書を見てみたがどうも分かり難く、その日はそのまま箱に仕舞い込んだ。翌日、近くに住む同級生の橋本の家を訪れた。橋本は、昔から写真に凝っていて有名だった。今は地区の区長をしている。

「隆明ちゃん、これはデジタルカメラと言って、昔のカメラのようにフィルムは使わないで、その代わりにSDカードという物を入れて撮影するものだよ。何回でも消したり出来るから、フィルムのように買い直す必要がないからお金が掛からないよ。写したカードを写真屋さんに持って行けば昔と同じように、何枚でも作ってくれるよ。」

橋本は詳しく説明してくれて、どうせならパソコンと連動させた方が楽しいと積極的にパソコンの導入を勧めてくれた。私はパソコンという物について全く知識を持っていなかった。ただ、パソコンを使いこなす友人がとても輝いて見えまた羨ましく、自分もそうなりたいと強く思った。

橋本の話しだと、市の無料パソコン教室があり、今が募集中だという。パソコンという言葉はとても響きが良く、何か憧れのようなものを感じ、さっそく申し込むことにした。市の無料パソコン教室は月に2回あり、6ヶ月コースとのことだった。

パソコン教室には、私と同じくらいの60歳を超えたと思われる人も数人混じっていた。何度聴いても覚えられず、もう止めようかと何度も思った。しかし、私だけではなく、他の定年を迎えたと思われる人たちも覚えられないと休憩中に愚痴をこぼした。このパソコン教室は続けながら、数名の人達で独自に勉強会をやろうと誰からとなく話がまとまり、毎週水曜日に近くの公民館に集まることとなった。もちろん私も仲間に加わった。

数日の後、友人の橋本に同伴してもらい、大型の電気店に向った。もちろんパソコンの購入が目的である。値段・性能・画面の大きさなど橋本は細かく説明してくれ、店員に値段の割引交渉までしてくれた。

細かいセットアップなどは、みな橋本が設定してくれたので、後は実際に文章を書いたり、表を作ったりするのは少しずつ覚えることにした。もちろん、デジカメで撮った写真の扱い方も少しずつで良いと考えた。

最近は、台所での大根を切る音もリズミカルになり、それだけ一人暮らしに慣れたということなのか?台所には玉ねぎやジャガイモの箱があり、冷蔵庫の中には冷凍食品がたくさん入っている。買い物は3日に1回程度、卵や野菜など買い溜めできないものをスーパーへ買いに行く程度である。

息子の嫁が送ってくれた1台のデジカメが、私の生活を大きく変えた。妻への哀惜の念からひと時も離れられず、半ばうつ病のように涙もろく虚ろな毎日から、大分前向きに生きることが出来るようになった。

パソコン教室で学んでいる時、そしてその中から生まれたパソコン仲間との勉強会の時間、少なくともその時だけは妻を忘れられた。生きていて楽しいと感じられたひと時であった。

息子夫婦は、私のことをすべて見抜いていたのだろうか?デジカメ1台で、私を救うことが出来ると本当に思っていたのだろうか?

息子夫婦がどう思おうと私が変わったのは事実だし、わざわざ送った理由を尋ねたいとは思わなかった。

 

第4章 パソコン仲間の気になる女性

妻が亡くなり、早や2年が過ぎた。私は62歳の誕生日を迎えようとしていたが、相変わらず、私はパソコン仲間と公民館での勉強会を続けていた。私のパソコンの腕も上がり、今ではブログも開設している。自分でも信じられない程の進歩である。このことでは、息子夫婦・同級生の橋本、そしてパソコンの勉強会の仲間に心から感謝している。

私は毎日、朝と晩に妻の仏壇に手を合わる。夜は作ったばかりのおかずを供えながら、その日の出来事やパソコンの上達ぶりを報告した。

私のブログ名は、「独居老人のひとり言」である。もちろん、ブログ開設時には同級生の橋本の力を借りた。そして、始めた当時は、文章を見て貰ったり画像の挿入の方法を教わったりした。しかし、今はそのお蔭で何でも自分でできる。

ブログの主な内容は、季節の移り変わりをデジカメで撮り、それにコメントを加えたものである。最近は、けっこうブログ仲間が増えて来て、返信を出すのが一苦労という状態だ。少しは疲れるけれど、充実した時間でもある。

パソコン仲間も人数が増えて、約10人前後の人が勉強会に訪れるようになった。仲間の紹介であれば誰でも参加できるのである。当初は、僅か3人でスタートした勉強会だったのだけれど。

女性も何人か含まれていた。いつも参加する女性は3名で、いずれも連れ合いを失くした高齢者ばかりだった。私もパソコンに精通するようになると、新しく入った初心者に何かと指導する機会が増えたのは当然だった。

初めからのメンバーで次回の勉強内容を決め、講師役を持ち回りで行った。なので、3回に1度は講師役となる。私が講師役の時に、正確には平成23年の5月半ば、新しく勉強会に入った女性がいた。50代後半の垢抜けた感じの、そして聡明そうな女性だった。正直に言えば、亡くなった妻に似ていると感じたのが第1印象で、私にはとても気になる女性となった。

しかし、私はいまだに妻を愛している。何年経とうが私の妻に対する愛が色あせることは無い。私には、自信がある。例え十三回忌を迎えようが、妻への愛はこのまま変わることはない。

ある日、妻に似たその女性が参加したパソコンの勉強会の時、私が他の初心者の女性に対する態度とは異なり、接する頻度が多いように自分で気付いた時には、少なからずショックを受けた。

この女性は仕事を持っているらしく、いつも参加する訳ではなかった。職場の仲間が急に用事が出来たときなど、代わり出勤することも度々あるらしい。女性同士で話しているのを何気なく聞いた私の心に、小さな波風が立っていた。

妻の仏壇の前で、必ずその日の出来事や思ったことを話しかけるのが私の日課だったが、最近の私は妻にすべて心の内を読まれているかのような気がし、両手を合わせている時間が確かに短くなった。私に、何の負い目があるというのだろうか?

 

第5章 退職金の目減り

妻が亡くなり既に3回忌も済んだ。私の一人暮らしも、もはや日常となった。妻と結婚後8年で購入したこの家も既に30数年の月日が流れ、台風で瓦が何枚か落ちたり、壁紙も大分変色したりと、本来はリフォームをすべき時期に来ていた。

私が45年間勤務した会社を定年退職した折、おおよそ1,500万円の退職金を貰った。そのお金は、長男の幸喜夫婦がこの家に住む為のリフォーム代か、或いはよその土地に家を購入しようとした時、その費用の一部に使わせるつもりでいる。

妻が生きていた時は家計費の管理は、妻に全てを任せていた。妻は私より、はるかにしっかりとしていて賢明だった。今、私は家計簿を付けている。しかし、贅沢はしていない筈にも拘わらず、年金だけでは生活費が補えず、預金を取り崩していることに気付いた。妻との別れのその悲しみで、何も考えられなかったが、このままでは退職金に手を付ける日が来ることが予想された。

固定資産税・国民健康保険料・県民税・市民税など、僅かな年金生活者にも容赦はない。私の家計簿の中で出費が大きいのは、上にあげた税金の他では第一に電気代、次に車のガソリン代や灯油代などだ。スマートフォンの出費も大きい。家のローンはないが、車のローンが残っている。食費の出費が多いのは止むを得ないと思っている。

私は昔、高級車に憧れた時期がある。妻に優しく諭されて実現しなかったが、その気持ちは今でも同じである。最近、街にはハイブリッド車が大分増えたが、私には縁のない話だ。やっと1800ccの中古車に乗っている。新車を買う余裕などある筈もなく、新車登録時から換算して11年も経つ車を、数年前に車検付きで56万円で購入した。通帳の預金を担保にして、利子の付くローンでの購入だ。妻なら、預金をおろし現金で買ったかも知れない。貧しいものは、手元の現金を手放すのが欲しい。キャンプや県外での撮影に利用するためバンタイプのものを選んだ。

私がスマートフォンを持っている訳は、通常の携帯電話としての機能以外は、ラインでの仲間との打合せ、また息子からの2歳になる孫娘の画像の受信、個人的には百科事典の代わりとして、またナビとして、特にネットでの情報収集には欠かせない。便利に使っているので、高額なのは止むを得ないと観念している。私にはなくてはならない物で、貧乏な年休受給者には相応しくないと非難される謂れはない。

5月になると自動車税の納税通知が来る。昨年はその書類を見て驚いた。何と、古い車だからと税が可算されているのだ。誰だって新車の高級車を乗りたい。出来ればハイブリッド車がいい。この前ガソリンを入れたのは何時だったかと、記憶を辿る真似がしてみたい。車を取り換えられない低所得の年金受給者に、どうして税金を加算するのか?

パソコン教室と、仲間のパソコン勉強会に参加するようになってから、生きる意欲が出てきた私は、生活費をどう立て直すかを考えた。節約も重要な方法ではあるけれど、何か侘びしい。心に余裕を持って生きるには、守るのではなく攻めでなければ、内に閉じこもった小さな人間になってしまう。

私は働く決心をした。

 

第6章 還暦後の就活

私は決して新聞を読むことも読書をすることも嫌いではないが、余りに世間の現実的な事には疎かった。

60才時から私が貰っていたのは、老齢厚生年金と言われるものらしく、65歳にならなければ年金の満額支給は受け取れないということを知ったのは先日だった。パソコンの勉強会の仲間との世間話から初めて知った。私が65歳になれば、今よりずっと支給額が増えるらしい。

妻が生きていればもっと早く知っていたに違いない。妻は年金の仕組みを知識として持っていたかも知れないし、そうでなければ定年時に即座に調べてくれただろうと思う。

とにかく、現実的にその老齢厚生年金とやらでは生活していけない以上、65才になるまで預金を取り崩していき、それでも足りなければ退職金に手を付けなければならない。退職金の使途が決まっている以上、私には働く以外、今の生活を維持していく方法がないということを遅ればせながら知った。

私はさっそくハローワークに出向いた。受付で必要事項を記入し、番号札を貰って、30台くらいある求人募集の見られるパソコンの順番を待った。使い方は、パソコンに慣れた私には簡単だった。

私にも出来そうな仕事をいくつか選んでコピーを取ると、就職を斡旋してくれる係の男性に呼ばれた。白髪が目立つ初老のその男性は、柔和な表情を浮かべて、私のコピーした用紙を受け取った。

私が初めてハローワークに来たことを知ると、採用条件に年齢不問とは書いてはあっても、実際はある程度の年齢層を見込んでいるらしいと教えてくれた。私が渡したコピーに書いてある会社の内容を見ながら、採用担当者に電話を掛けてくれた。採用担当者は、私の年齢を聞くとやんわりと何らかの理由を付けて断っていたようだった。私の選んだ会社はすべて断られた。

私は中卒の還暦を過ぎた老人だ。そう簡単に私を採用してくれる会社はみつかる筈はなかった。私でさえも同じ賃金を支払うなら、覚えが早く、機敏で尚且つ永く働いてくれる、少しでも若い力を求めるのが当然と思った。

私は、今現在置かれている自分の状況を初めて知った。

 

第7章 派遣労働者となって

私は、もちろんハローワークを度々訪問したが、面接まで行くこともなく、新聞の折り込み広告にも目を通した。学歴不問と年齢を考慮して探すと、おのずと職種は絞られてしまっていた。例えば、清掃員・警備員・介護関係等が主だった。そしてそれらの求人元は、殆どが派遣会社ばかりだった。

それでもやっと、ある工場で働くことになった。もちろん派遣での採用だった。仕事の内容は、ある大手の住宅会社の下請けで窓の組み立て作業だった。派遣会社の担当者に連れられ現場を見に行ったが、採用してくれるというので働くことにした。工場では、20代から私よりもずっと年上らしい男女まで働いていた。賃金は熟練者も、まだ入りたての者も皆同じとのことだった。

私は、頑張って働いた。時給がいくらとか考えたことはなかった。こんな安い時給では、モチベーションが湧かないと若い者同士が、休憩時間に話していた。1週間が経ち私も随分仕事に慣れた。仕事が随分早くなったと、自分を褒めた。

次の週のことである。私がいつものように脇目も振らずに作業に夢中だった時、その班の責任者らしきまだ30代前半の男が、いきなり私に声をかけた。何事かと電源を落として顔を向けるとこう言った。

「小松さん、もうこの仕事に就いて1週間になるんだから、今の倍の量の仕事をしてくれないと困るよ!」

この会社では「トヨタ方式」とかを採用しており、毎日の仕事量と進捗状況が一目瞭然に示されていた。私は頑張れば5割増し位までなら何とかなると思ったけれど、2倍の仕事量の自信はなかった。

当日仕事が終わってから、派遣会社の担当者に腰を痛めたので辞めたいと連絡した。その後、やはり派遣会社の面接を受けて、いくつかの会社で働いたが、永くは続かなかった。殆ど事前の教育などなくて、いきなり現場に行かされた。ある工場では、作業着に着替えた途端ラインに立たされた。

頑張る気持ちはあったけれど、どこでも永くは続かなかった。

 

第8章 無職となって

ここしばらく、毎週水曜日のパソコン教室も参加していなかった。もちろん初めから関わった講師役の二人には事情を話し、また落ち着いてから参加するということで快諾を得ていた。

最近の私は落ち込んでいる。行こうとすれば、水曜日の勉強会も参加できる状態にあった。時間を持て余してさえいるのだから。一人で家の中にずっといることは辛かった。というより世の中から、自分の存在の必要性を否定されたような、暗澹たる思いで打ちのめされていた。こうした気持ちのまま、どうしてパソコン勉強会の仲間に会えるだろうか?

そういえば、妻に何となく雰囲気の良く似たあの50代後半の女性は、まだ参加しているのだろうか?最近は勉強会で会うこともないので、仏壇の妻にはなにも恥ずかしがることはなく、最近の派遣労働についての愚痴を聴いて貰っている。

妻が私に仏壇の向こう側から、言いたいことは分かっている。これ位のことで弱音を吐くのは男らしくない。もっと悲惨な状況の中でさえ逞しく生きている人々はごまんといるのだから、もう少し強い気持ちを持って生きて欲しい。

「労働者派遣法」なる法律が、今の日本を、今の老若男女の労働者を貧しくしているという話しを、幾つか行った派遣先の若者や中高年者が良く話していた。中卒という学歴を隠れ蓑にして逃げるわけではないけれど、今まで派遣労働という言葉は知ってはいたが、この法律の内容については全く知識がない。

私は派遣労働者なる人々とは、殆ど交差点ですれ違った程度の会話しかしていないが、生活状況は派遣社員の専用駐車場をみればある程度分かる。まず、殆どが660㏄の軽自動車ばかりだ。それも年式が古い車ばかり。

休憩時に話す内容は、生活に余裕のある者には多分理解できないだろう。ある50代の派遣社員は、鍋にインスタントラーメンを2つと卵を入れて、鍋から直接食べる時が至福の時間だという。

何年頑張って熟練者になろうとも、私のように昨日今日入った者でも同じ時給というのでは、確かにモチベーションも上がらないだろう。世代や男女関係なく、月22日働いたとしても、税引き後の手取りは13~15万円。ボーナスは無く、祝日が増えるのを決して歓迎することは無い。収入が減るだけだ。

若い人は、家賃やスマホの支払いや若干の娯楽費を引くと、食べて行くだけで精一杯だ。結婚や持ち家など、夢の夢。高級車に乗りたい者は、10数年も前の中古車を買い、自動車税やガソリン代に悲鳴を上げて1年も持たずに手放すことになる。

私は、何を言いたいのだろうか?ここまで書いてきて、派遣労働者の人たちが生活に追われ辛い状況であることは、メディアを通じて、あるいは身近な人を通して、私でなくとも大勢の人たちは知っている。今更、書く必要があるのか。

私も同じようなものだ。私はお酒が大好きだ。アルコール依存症かと自分でも思う位だが、年1回の市の検診でのγ-GTPの数値は正常値である。数日禁酒をしてから健康診断に臨む友人がいるが、私は前の晩も普通に晩酌をする。

スーパーにお酒を買い物に行くと、まず冷蔵庫の中の包装紙で包まれた日本酒の棚の前は通り過ぎる。その先の、紙パックのコーナーから物色する。酒の知識がある訳ではないが、1,8リットル入りで1,000円未満の安い酒は、それなりの製造方法があるらしい。以前何かで読んだ覚えがあるが、詳しいことは忘れた。でも、私はやはり1,000円未満の酒を選んだ。

良く刺身売り場を覗いたりするが、たまにマグロのぶつ切りを買う。いくつかの種類が混じった盛り合わせなど、金額を見てためらってしまう。

衣類にしてもそうだ。気に入ったシャツやセーターを手にとっても、値段を見て諦めることが多い。安いものは長持ちしないのは知っている。一度洗濯をすると伸びてしまったり、逆に縮んでしまったりする。それでも、やはり買ってしまう。

近くには100円ショップがある。これは助かる。ついつい要らないものまで買ってしまうのは、フラストレーションからか?

 

第9章 平凡な老人の価値

私は体を動かすことが好きだった。妻が生きている頃は、いつも近くの公園の芝生の中を走り廻っていたものだ。数キロ先に、リンリンロ-ドと言って自転車と歩行者しか通れない片道40キロのサイクリングコースがあるが、50代の頃の私は平気で往復が出来た。63歳の現在の私は、落ち込んでいてそうした気力が無い。

妻と二人で頑張って、子供を育て上げた。その息子も嫁を貰い子宝にも恵まれた。親としての役目は終わったと思っている。この先、何の楽しみがあるのだろうか?鏡を見ると、顔の黒いしみは年を経るごとに増えていく。白髪も増え頭頂部は透けている。二の腕の皮膚にも、蛇の抜け殻のような皺がある。何処から見ても私は老人であることを認めざるを得ない。

前にも書いたが、家に一日いるということは本当に辛い。世間と隔離した、無用な老人・・・。最近はパソコン仲間ともご無沙汰しているので、言葉を発する時と言えば、仏壇の妻に話しかける程度である。

新聞の2頁辺りに良く新社長の紹介記事が載る。もちろん若いエネルギーと斬新な経営戦略を期待された若い新社長が多いのも事実だ。しかし、既に古希を過ぎたような老人の新社長も時々就任することがある。私はこうした高齢の新社長が羨ましくてならない。もちろん、相当な期待と責任を背負った地位は、私なら3ヶ月も持たないで、平に戻して欲しいと懇願する姿が眼に浮かぶ。

だが、世間に注目されつつ、大きな組織の中で自分の人生の最終章まで演じきれるというその生き方が、私にはたまらなく羨ましい。その羨ましさの中には、生涯お金に困ることなどないだろうという嫉妬心も内包している。

貧乏な家に生れながらも、大成した人は多いかも知れない。しかし、私はどうしても、貧困の連鎖は確かにあると考えてしまう。私よりも中学時代成績の悪かった友人が、十数年ぶりで逢うと医師になっていた。もちろん本人の大きな努力の賜物だろうが、貧しい家庭に育ったら初めから医師になろうと考えただろうか?

こう書いていて、悍ましい自分に呆れている。何とひねくれた考え方だろう。自分の貧しさを、親のせいにしている。それなら貧しかった父も母も、明治生まれの両親のせいにするだろう。貧困の連鎖は、どこかで断ち切らなくてはならない。遥か昔に、「貧乏人は麦飯を食え!」と言った総理大臣がいた。しかし、その後日本の経済は飛躍的に向上した。貧困の連鎖の終焉は、個人の力では限界があり、それはやはり政治の力が重要なのかも知れない。

ところで、私のような、特化した知力も財産もない人間は、どう老後を生きれば良いのだろうか?生きる意味などあるのだろうか?こんな私でも息子たちには必要かも知れないが、私自身の生きる意味とは何なのか?私には思い浮かぶ言葉が見つからない。老後に、決して明るい見方が出来ないのは、ひねくれているのか、あまのじゃくなのか、それとも単なる怠け者なのか?     つづく

 

第10章 老人の淡い恋心

日曜日の夕方、パソコン仲間の友人から電話が入り、働いているのかと聞かれ、派遣の仕事を辞めたばかりだと話すと、来週から出て来て欲しいという。何でも新しく入った仲間が数人おり、指導する手が足りないらしい。私も、家にいるのが辛く、喜んで誘いに乗った。

早速、水曜日のパソコン勉強会に行った。しばらく振りなので、少し緊張して行ったのだが、みんな歓迎してくれた。来て良かったと安堵した。全員の顔を見渡すと、妻に似た50代の女性も笑顔で会釈をしてくれた。

今回は、エクセルで家計簿の支出の割合を円グラフで作っていた。講師役の友人が、全員の表情を観察しながら、上手に進めていた。私も、仲間の間を回り、遅れていないか、間違えていないかを確認して歩いた。例の50代の女性の机の傍の床にハンカチが落ちていた。一生懸命で気付かなかったらしい。拾い上げて渡す時に良い香りがした。女性は軽く頭を下げて微笑んだ。

パソコン勉強会の時間は、午後2時から4時までと決めてあるが、時によってはずれ込んだりすることもある。終ったあとは全員で戸締りをしてから別れる。

私は例によって、型式の古い車に乗っている。この日はあいにく先程の女性の車が車検に出してあり、このパソコン教室の別の女性にわざわざ遠まわりをして乗せて来て貰って来たらしい。今日講師役を務めた仲間が、私に言った。

「小松さん、大変済みませんが、大川さんを送って頂けませんか?この中では、小松さんが一番大川さんの家に近いものですから。」

私は、「はい、喜んで。」と彼女に向って言った。彼女の姓が大川であるということを、今初めて知った。彼女の道案内でおよそ10分位で着いた。車の中で話が弾んだ訳ではないが、彼女の現在の様子を少し知ることが出来た。彼女は言葉を選びながら、とても丁寧な話し方をする女性だった。容姿も十人並み以上の、賢明そうな感じがした。

結婚相手と離婚したのか、死別したのかは分からないが、30代の息子と二人暮らしとのことだった。事情があり、少し前に早期の定年退職をし、今は週4日のパートをしているとのことだった。彼女の家に着き車から降りると、彼女は深々とお辞儀をし礼を言った。私は「今度またこうした事情があるときは、連絡くだされば迎えに来ますよ」と、彼女の顔を見ながら笑顔で言った。

すると彼女はカバンから携帯電話を取り出し、私の電話番号を教えてと言う。私が番号を言うと、携帯にその番号を打ち込み始め、私の携帯の呼び出し音が鳴ると直ぐに電話を切った。笑顔で、登録させて頂きますと言った。

家に着くと、何故か落ち着かなかった。いくらパソコン仲間と言いながら、こうも簡単に携帯の番号を教えてくれるものなのか?私は妻以外の女性と携帯電話で話したことがあるのは、同じパソコン勉強会の女性への要件があるときのみであった。家に着き、車庫の中で彼女の携帯番号を登録したが、胸が高鳴った。

 

第11章 偶然の出会い

無職の私は、相変わらず預金を取り崩しながら生きている。節約をしようと思えば、多少生活費を切り詰めることは出来るだろうと思う。冷暖房費等の電気代やガソリン代、また食費も少しは切り詰めることが出来そうだ。

話しは逸れてしまうが、私が派遣の仕事をしていた数ヶ所の職場で見た、少し驚いた昼食代他の節約法を幾つか紹介させて頂く。

○40代女性 独身  昼の弁当は季節に関係なくうどん。大量に茹でて小分けしてラップに包んで冷凍保存。つけ麺的な食べ方で、昨夜の残り物の僅かな副食での昼食。米の弁当より節約できるという。

○40代男性 独身  築数十年の戸建アパートで独り暮らし。下水が完備されておらず、毎朝近くのコンビニのトイレにて用を足す。風呂は殆ど入らない。顔が光っていた。

○30代男性 独身  お昼は弁当を持参。おかずは毎日同じ1品だけで、ご飯の上に乗せてある。天麩羅のようだが、自分で作った物で、作り置きして冷凍庫で保存しているらしい。別の職場でも、全く同じような弁当の男性がいた。

○30代男性 独身 昼食はスーパーで買ったカップ麺におにぎりかパン一つ。大盛りのカップ焼きそばの時はおにぎりなし。カップ麺等はスーパーでの特売日に買いだめしておくとのこと。

昼食のことが多くなってしまったが、当然のことながら朝食と夕食時はお互い別で知る由もない。上記の人は皆独身である。当然、食事代は節約できそうだが、健康にはあまり好ましくないような気がする。

私も食事代を見直す必要があると感じている。スーパーで買い出しをして自分で作ることもあるが、どうしても面倒になってしまうことが多い。最近は、スーパーでの出来合いの総菜を値段が下がる時間を見計らって買いに行くことが多くなった。また、外食をしてしまうことやコンビニ弁当に頼ってしまうこともある。また、酒代とつまみの費用も考えてみると馬鹿にならない。

余り節約のことばかり考えるとネガティブになり生きる気力が萎えてしまうので、そのうちまた何か職を探すことにして話を先に進めようと思う。

パソコンの勉強会は、毎週水曜日の午後2時から4時までの2時間であるが、途中20分の休憩を取っている。この時間は、誰という訳ではなく持ち寄った茶菓子を食べながら、自動販売機で買ったペットボトルのお茶を飲みながら雑談に花が咲く。もちろん携帯用ポットを持ってくる人もいる。

殆ど還暦を過ぎた人たちばかりなので、健康問題の話題が多い。膝や腰が痛む、僅かな段差につまずく等、話は尽きることがなく20分の休憩時間はあっという間に終わる。

パソコン仲間には、連れ合いを死別や離婚などで失くした人が何人かいる。当然私もその一人である。ある日の休憩時間に、食べ物の話になった。どこの店が安いとか、何時ごろになると値段が下がるとか、皆自慢げに話した。

その時、誰かが私に質問をした。

「小松さんは、自炊しているんでしょ?食料の買い出しはどうしているの?」

私はありのままを話した。基本的には、週2回○○スーパーに行くこと。夜8時頃に行くと惣菜の値段が安くなっているので、出来合いの総菜で済ませることが多くなってきたこと。時々はコンビニ弁当や外食することもあること等。

それから、次の週のことだった。私が、いつものスーパーで8時過ぎに食料品の買い出しに行った時のことである。惣菜売り場で、イカの天ぷらにしようか鯵のフライにしようかと迷っている時、ふと後ろから私を呼ぶ声がした。

「あら、小松さん!今から夕食ですか?」

振り返ると大川さんが、カートにマイバスケットを乗せて立っていた。私は少し恥ずかしそうにうなずいた。大川さんがこのスーパーで、この時間に買い物をするとは知らなかった。

 

第12章 早期退職の理由

不思議なことに、その後も何度か同じスーパーでやはり同じ時間に大川さんに会うことが続いた。

思い切ってある日尋ねてみた。

「大川さん、良く最近お会いしますね?これから、夕飯ですか?息子さん、もうすっかりお腹を空かしているんじゃないんですか?」

少し意地悪だったかも知れない。今度こそ聞こうと考えていたのだが、私の声は多少上ずっていた。

「そうなんですけど、でも私も家計のやりくりが大変なんです。先日、小松さんから休憩の時間に伺ってから、私もそうしようと決めたんです。息子も、分かってくれて待っていてくれます。」

私は、正直驚いた。この大川さんは、身なりも良いし、とても家計費を切り詰めなければならないような生活臭は微塵も感じられなかった。人は、見た目では何も分からない。特に、私の愚推ほど当てにならないものはない。

二人とも買い物が済み、そのスーパーの駐車場に向う途中、カートを押しながら大川さんが話し出した。

「私、56歳の時、選択定年制で早期退職をしたんです。本当はその会社でずっと、出来れば65才まで勤めていたかったんです。でも、息子が過酷な労働と上司の叱責から、体調を崩し、うつ病になってしまいました。労働組合にも相談し、また公の相談窓口にも足を運びましたが、どうしても会社は労災とは認めてくれず、結局裁判しかないということになりました。

私たちに裁判をするだけのお金に余裕はありませんので、止む無く引き下がりました。無職となった息子は、自分の部屋に入ったままで、外に出ることも避けるようになりました。私は会社の仕事をしていても、息子のことが気がかりで、時々帳簿上の計算ミスをするようになりました。

ちょうどその時、会社は55歳以上を対象とした『早期の選択定年』の募集をしておりましたので、私は応募しました。将来の生活より、その時の息子が心配で、少しでも寄り添っていたかったのです。」

そこまで話すと、大川さんは小さくため息をつき、私に謝罪した。お腹が空いているのに長話をして申し訳ないと、無理に作った笑顔を私に向けた。

「私は大丈夫ですよ。息子さんが待っているでしょうから、今日はこの話は終わりにして、この続きは近いうちにしましょうよ。私でお役に立つことなら、何でも致しますから。」

ここで別れた。人は、明日のことは分からない。人は時として、自分の人生や家族の人生が病や外部の要因により、命の危機に直面したり、また生活状況の大きな後退を余儀なく強いられることがある。そして、そんな瞬間は何の前触れもなく突然やって来る。私は、妻の死で骨身に沁みていた。

 

第13章 人はいつまで働くべきか

あれは確か平成20年頃だったろうか?日本人の看護師や介護師が不足し、インドネシアやフィリピンの人たちの受け入れを開始したという記事を目にしたのは。外国の人たちから日本人の看護や介護をして頂くことは、とても有難いことだと、私は新聞を読みながら思った。ただ、日本語の漢字が難しく、資格試験の合格率は1割程度だったかと記憶している。

そんな折、ある病院が「准看護師学校」の学生を応募していることを知人から聞いた。「准看護学校」という学校があり、病院で助手をしながら「准看護師」の資格を取らせてくれるという話らしい。知人の奥さんがその病院で働いていて、病院の職員があちこちに声を掛けているらしかった。中卒でも可能という。

私は中学を卒業してから、ゴム製品の工場で昼夜交代の仕事で働き尽くめだったこともあり、定年後は別な仕事がしてみたいと考えていた。そのせいもあって、私は、この「准看護師」の資格に大きな興味を覚えた。私が58歳になる少し前のことである。

私はさっそく、その病院に電話をした。電話に出た事務の女の人は、「お孫さんが、お入りになりたいのですね」とだけ言って、私の名前と住所を聞いた。資料をすぐ送ってくれるらしい。

送られた書類に目を通した。妻が笑って「何年も働かないうちに、自分が看護される方にならないでね」と言ったが、反対はしなかった。私は、真剣だった。

准看護学校で2年間勉強をし、「准看護師」の国家試験を受け、合格すると晴れて病院や施設等で働くことが出来るらしい。ただ、やはり経験がないと不安なので、老人施設などで働くには経験を経てからが望ましいと、当たり前の説明まで記載されていた。

58歳の私が2年間勉強して資格が得られるのはちょうど60歳、還暦の年だ。第2の人生をしっかりと生きるつもりだ。履歴書などの書類一式を送ると共に、便箋に思いの丈を記して同封した。

果たして、投函して10日位経ったころに病院から封筒が届いた。工場から帰ると郵便受けに、ここ数日真っ先に走っていた私は、興奮し少し震える指で封筒を開けた。

初めに応募への感謝のことばが記してあり、希望に添えず申し訳ないという内容で、あなた様の熱意は確かに届きましたと付け加えられていた。最後に、より一層のご活躍をお祈り申し上げますと、不採用の通知には欠かせないであろう文字もしたためられていた。

私は真剣だった故に、とても悲しかった。

ちょうどその日、平成20年11月16日(日)某新聞の朝刊に次のような投書が載っていた。「老人の自立促す」というタイトルで、佐世保市の浦川潔さんという76歳からのものだった。

-老人の自立促す-

「我が国は、70歳以上が2800万人を超し、超高齢者社会に突入した。そんな中、4月に始まった後期高齢者医療制度には、不満や反発が根強い。

老人の医療費を減らすのではなく、『私は自立するんだ』という強い精神力を持った老人を増やすような啓発運動が必要だろう。65歳から介護保険制度を利用する権利ができたと考えるようではいけない。

働く意欲と能力のある高齢者が社会の支え手として活躍できるような体制作りが急務だ。そのためには、年齢を基準とせず、働く意欲に応えられる生涯現役社会を作らねばならない」

私と全く同じことを考えている人がいることを知り、私は優秀な「准看護師」になって見せると、今朝は発奮していたのだった。

人生は思うようにはならない。しかし、こうした声を上げ続けなければ、いつまで経っても何も変わらない。ただ、まだ時期が早いのか?

落ち込んだ私は、定年まで今の工場で働くことを妻に告げたのだった。

 

第14章 独居老人の孤食の弊害

私は栄養学というものを知らない。

妻が亡くなる数日前に、まだ意識がしっかりしている時に、私に言った言葉を今も忘れない。

「ただ、心配なのはお父さんが一人でご飯を作ったり、洗濯したり、それが一番心配・・・・」

妻が心配したのは、食事に関しては私が妻に頼り切りで、殆ど料理というものをしたことがなかったからだ。妻が亡くなって2ヶ月が経った頃、すっかり落ち込んでいた私に、息子の嫁がデジカメを送ってくれて、パソコンの勉強会に繋がった。その時私は新鮮な学びに、ひと時悲しみから逃れられ、生きる意欲と共に、食べるという行為にも前向きになったものだった。

初めは、炊飯器の使い方も分からず、息子の嫁の由美子に電話して教わった。確か、妻の葬式の後、四国へ帰るという前の日、由美子は台所に私を呼び、一通り自炊の方法についてレクチャーしてくれたような記憶がある。その時は、私は悲しみの真っただ中で、何を聞いても上の空だった。

パソコン教室や勉強会に出るようになってから、確かに大根を切る音もリズミカルになってはいた。しかし、大根は味噌汁の具で、その他の副食は、卵焼きとか納豆・豆腐といった調理とは言えない代物ばかりを繰り返していただけであった。野菜を意識して摂るというようなこともなかった。

そのうち自炊にも飽きてきた。またご飯を1人分だけ炊くというのも、面倒になった。食べ切れずに、捨ててしまうことも度々ある。スーパーの惣菜は便利だった。最近のスーパーは小分けにしてあり、自分で作るよりも手間がかからず、安上がりなような気がする。電子レンジの使い方も、由美子に教わって、とても重宝している。

パソコンの勉強会で大川さんと出会い、スーパーで良く会うようになった頃、息子の嫁の由美子から郵便物が届いた。さっそく開けて見ると、千葉県のホームページから印刷した『高齢者のための季節の献立集』というものだった。最初に以下のような文章が目に入った。

「高齢者の低栄養を予防し、要介護状態への移行の防止や遅延を図り、高齢になっても元気で生き生きと暮らせることを目的に、千葉県と千葉市が共同で作成した献立集です。一人暮らしの男性でも気軽に作れるようなメニューを中心に、バランスのよい食事ができるようレシピ集を作成しました。旬の食材を取り入れた春夏秋冬にあわせたレシピとなっています。」

もちろん高齢者が病気で入院したり、寝たきりになり介護施設に入所したりすると、地方自治体の財政に大きな負担が掛かる。高齢者には元気でいて貰わないと困る訳だが、老人にしても最後まで自分のことは自分でしたい。私は、息子夫婦にも介護施設の世話にもなりたくない。

検索用のタグさえラインで教えてくれればお金は掛からず済んだのに、わざわざコピーを送ってくれたのは、私の健康を気遣ってくれる真心が感じられた。

一人暮らしは、どうしても生活がルーズになる。孤食というのは、やはり寂しい。どうしても同じようなメニューが続き、食べるという行為自体に喜びが感じられなくなってしまう。その結果、食事の回数が減ることになり、一日2回という時もある。昔、子どもが幼い時は、親子3人、朝と夜はいつも同じ時間に食卓を囲んだものだった。あの頃が、たまらなく恋しい。

さっそくメニューを見てみることにした。先ずは、春のメニューである。それは4週分に別れ、7日ごとに朝昼晩の3回分が表になっていた。朝はご飯とみそ汁が多いが、パンの時もある。納豆のような手を加えないおかずもあるが、煮物など殆ど手を加えたものが多い。手を加えるということは、簡単に言えばそれだけ頭を使うということである。痴呆症予防も考慮されているのかと感心してしまった。

季節の物(菜の花・たけのこ・春野菜)も取り入れた、想像しただけでも食欲をそそりそうな献立表だった。また、初めて見るような料理にはちゃんとレシピが用意してあり、私でさえも何とか作れそうな気がした。ただ料理初心者の私には、栄養のバランスを考慮しているためか種類が多く、知らない料理が多いのが少し気になった。

カレンダーに合わせ、先ず2週目10日の夕飯「じゃがいもとキャベツの甘煮」を作ることにしたが、このレシピは載っていない。台所には、しょうゆ・味噌・塩・砂糖・コーン油・コショウ・七味唐辛子程度の調味料はあるが、それだけで作れるものなのか見当がつかない。

私は少し迷ったが、大川さんに相談することにした。電話を掛けると、大川さんは途中言葉を挟まずに最後まで私の話を聞き「今日もいつもの時間にスーパーへ行くので、私で良ければいいですよ」と、明るく答えてくれた。

 

第15章 初めての献立

その晩、私は息子の嫁から送ってもらった『高齢者のための季節の献立集』を大川さん用に1部コピーをし、少し早目にスーパーに向かった。大川さんがいつも駐車する辺りに車を止めて待った。

少しすると、大川さんの車が近づいて来た。車を降り、マイバスケットとカバンを持ち、私の車に向って歩いてきた。

「ごめんなさい。待ちました?」

私は窓を開けて、今来たばかりですと言った。私は車を降りて、助手席に座って資料を見て欲しいというと、分かりましたと言い、私の隣の座席に腰を降ろしてくれた。

「これが息子の嫁が送ってくれた千葉県の『高齢者のための季節の献立集』です。とても良く出来ていたので、大川さんにも1部コピーを取って来ました。これがそうです。どうぞ!」

私が室内灯を二つ点けると、大川さんはさっそく献立表全体をめくりながら少し考えるような表情をした。それから今日の予定である4月の2週目12日の献立表を開きながら、私に言った。

「小松さん、小松さんがおっしゃるとおり良く出来た献立表ですね。この献立表からは、自分のお父さんやおじいちゃんを想いながら作られたような優しさを感じます。作られた方の真心が感じられます。

ですが、ほとんど料理が初めてという高齢者には、いきなりこの献立表通りに作ることは難しいと思います。今晩のメニューは、ツナチャーハンとコンソメスープ、それにじゃがいもとキャベツの甘煮ですね。

今回は、お電話で約束したとおり『じゃがいもとキャベツの甘煮』を作る材料と調味料を買いましょう。作り方は、私がメモして来ましたので、お家に帰られてからやってみて下さい。」

大川さんは自分の買い物を後回しにし、「じゃがいもとキャベツの甘煮」の材料を探し始めた。その前に、私の家にある材料と調味料を尋ねた。そして、キャベツ・にんじん・シイタケと、調理用の酒・みりん・オリーブオイルを籠の中に入れた。私はただ、大川さんの後をついて回った。少し、財布の中身が気になった。

「初めは、調味料などお金が掛かりますが、長持ちしますから、結局安い買い物になります。それから、余った材料はしばらく持ちますので、他のメニューにも使えるので大丈夫ですよ。」

買い物が終わると、大川さんはバックを開けて、二つに折った紙を取り出した。作り方のメモ用紙だった。大川さんはスーパーの入り口の明るい場所で、メモを私に見せながら説明してくれた。一通り説明が済むと、大川さんは「頑張って下さいね。」と、再び店に入って行った。今度は、自分の買い物をするために。

私は家に着くとさっそくスーパーの袋からすべてを取り出し、調理に取り掛かった。時間は、午後9時近くになっていた。メモを見ながらなので、出来上がったのは10時を過ぎていた。ご飯を電子レンジで温め、「じゃがいもとキャベツの甘煮」で遅い夕飯を摂った。これだけではタンパク質が不足するとのことで、豆腐も一緒に食べた。

初めて作った「じゃがいもとキャベツの甘煮」は正直美味しいとは言えなかったけれど、慣れれば私もパソコンのように腕を上げることが出来ると確信した。

 

第16章  料理勉強会のキッカケ

次の週のパソコン勉強会の休憩時に、大川さんが皆の前で私に聞いた。

「小松さん、先日の『じゃがいもとキャベツの甘煮』、どうでした?うまく作れました?」

私は少し驚きながら答えた。

「ええ、レシピの通り作りましたので、とても美味しく作れましたよ。」

皆がどういうことなのか、興味津々という顔で、大川さんと私の両方の顔を見比べた。私は正直にありのままを仲間に話した。すると、ある高齢者の女性Sさんがいきなり真剣に話し始めた。

「私、先日テレビで見たんですけど、高齢者には低栄養者が多いそうなんです。でも、家族と一緒に食事をしている人は少ないそうですけど、一人で住んでいる人が低栄養者になる人が多いんですって。低栄養者の人は、そうでない人と比べると介護を受ける確率が同じ年齢の人よりずっと高くなるんだって。

それに免疫力が低下し、風邪を引きやすくなったり肺炎にもなりやすいと講師の先生が言ってました。他にも一杯あって、認知機能が低下するとか心筋梗塞や狭心症にも掛かりやすいとか。

私も、一人暮らしで食生活は随分いい加減なので、心配になってしまって。小松さん、私にも『高齢者のための季節の献立集』のコピーを頂けませんか?コピー代はお支払いしますから。」

いつも賑やかな休憩時間が、急に暗く寂しいものになってしまった。

そのパソコン教室の日の夕食も、私は献立表のとおりに作ろうとした。『高齢者のための季節の献立集』では、ごはん・カレイの煮つけ・ブロッコリーの菜種和えだった。(私にも少し知恵がついた。秘密だけれど、このレシピはなかったので、ネットで調べた。)

スーパーで材料を買って来た。カレイの煮つけは、鍋にコップ半分の水を入れ、しょうゆ・砂糖・みりん・酒等を適量入れ沸騰してから、頭を落とし3つに切り分けたカレイを入れた。

ブロッコリーの菜種和えは、鍋でブロッコリーを茹で、茹であがったら取り出し冷ましてから、冷蔵庫で冷やす。それから油を引いたフライパンに卵を入れ、混ぜながら火を通してから冷ます。最後に、醤油と和風だしで調味料を作り、一口サイズに切ったブロッコリーと卵と調味料を絡めて完成。

このブロッコリーは、マグネシウムとカルシウムを多く含んでおり、血圧を正常化する効果があるらしい。また美容にも効果的なビタミンCがレモンの約2倍含まれているとのことなので、女性にもお勧めだ。この献立表は素晴らしい。改めて感動してしまった。

次の週のパソコン勉強会の休憩時間に、私が『高齢者のための季節の献立集』をほめると、63歳になる一人暮らしのYさんが言った。

「小松さん、私はスーパーで好きなものばかり食べているので、この前のSさんの話しを聞いてから、何か心配になってしまった。だが私は料理には全く自信がない。そこでお願いなんだけど、このパソコン勉強会のように『高齢者のための季節の献立集勉強会』を、このメンバーで開いて貰いたいと考えたのだが、どうでしょう?」

この公民館には、調理用器具が設置された部屋があった。それに使用料はとても安い。大勢が入れる大きさである。瞬時に大川さんが声を上げた。

「その考えは、私も素晴らしいと思います。確かに男の方で料理が苦手な方は多いと思います。この献立集を教科書にして、毎週1回程度この公民館で勉強会を行えば、1年後ぐらいには皆さん、かなり上達すると思います。どうでしょう。皆さん、この際思い切って始めてみませんか?」

大川さんが話し終えると、全員賛成というように拍手が響いた。そこで私も発言した。

「料理勉強会と言いますと、いろいろ準備など大変な問題もあろうかと思いますが、心配するより先ず行動が大切です。皆さん、賛成のようですので、次回のパソコン教室の後、運営についての話し合いをしたいと思いますがいかがでしょうか?こんな勉強会にしたいとか希望があれば考えて来て下さい」

ここで休憩時間は終了した。

 

第17章 「なのはな会」発足

次週のパソコン勉強会で話し合う「料理勉強会の運営」について私は考えた。

パソコンの勉強会の場合、ノートパソコンだけを各自用意すればよい。後は、講師役が資料を人数分だけコピーするだけで事足りる。

しかし、料理勉強会はそうはいかない。料理の食材の買い出しは、約10人分ともなれば大変な量だ。誰が買い出しをするのか、また肉や魚などの生物は、外気の温度によっては鮮度が落ちる。クーラーボックスも必要になるし、保冷材の管理も必要だ。

まあ、問題はたくさん出てくるだろうが、愚痴からは何も生まれない。一つひとつ解決しながら進める以外にない。翌週の話し合いに向けて、私はA4サイズの用紙に、「料理勉強会発足にあたって」との題名で、決めなければならないこと、相談しなければならないこと等思い付いたことを列挙した。

①         会の名称を決めること

②         会長(責任者)を決めること

③         講師役について

④         勉強会の回数について

⑤         勉強会の開催時間について

⑥         出欠の有無について

⑦         買い出しについて

⑧         食材などの費用の支払いについて

⑨         講師役の人からの費用徴収について

⑩         クーラーボックス及び保冷材の購入について

⑪         その他(何でもどうぞ!)

当日、パソコンの勉強会の時間を少し切り上げて、3時30分から「料理勉強会」についての話し合いを行った。全員の了承のもと、私の用意したレジメに従って進めることになった。

会の名称について、私が発言した。

「この『高齢者のための季節の献立集』は千葉県と千葉市の方々が、高齢者のために作られた、とても心のこもった、素晴らしい献立集です。千葉県の県花は、なのはなです。作られた千葉県に敬意を表して、この会の名称を「なのはな会」としませんか?また、このメンバーだけでなく、皆さんの紹介があれば、どなたでも参加できるということにしてはいかがでしょうか?」

とても良い名前だと、数人の人から称賛の声が上がり、私たちの『高齢者のための季節の献立集』勉強会の名称が「なのはな会」に決まった。

会長の選任は、大川さんからの推薦があり、また全員の拍手で私と決まった。私はこの仲間から必要とされているのが嬉しかった。

つづいての講師役の件については、大川さんから発言があった。

「先週、私出過ぎたことを申しましてすみません。もし私で宜しかったら、講師役と言うより、お世話係をさせて頂きたいと思います。私、一応調理師の免許を持っています。でも、昔高校を卒業してから調理師学校を出ただけで、経験はありません。

それから、私仕事がありますので、毎回参加できるか分かりませんので、定年前に病院で管理栄養士をしていた、知人の加藤さんに先日直接相談をさせて頂きました。

そうしましたら、とても素晴らしいことなので、ぜひ仲間に入れて欲しいと加藤さんからお願いされました。皆さん、いかがでしょうか?私と加藤さんで、講師役とか堅苦しいことは抜きにして、おいしい料理を皆さんと一緒に作って行けるようお世話係ということでどうでしょうか?」

大きな拍手に「どうぞよろしくお願いします。」と、大川さんは立ち上がって深くお辞儀をした。

つづいての議題に入った。勉強会の回数についてだ。ここでも、私が口火を切った。

「前回、大川さんから、週一という話がありましたが、私は少し負担が大きすぎるような気がしています。毎週パソコン教室もありますし、各自それぞれ用事もあることでしょうから、どうでしょう?2週間に一度ということでは?」

私は、無理に押し切るつもりは更々ない。後から議題で出てくる「買い出し」このことが一番心配だったからだ。大川さんが、再度立ち上がって発言した。

「前回、私良く考えもせず、週一なら上達が早いなどと生意気なことを申しましたが、週一のペースは会長の言う通り、皆さんの負担が大きすぎると思います。初めから、無理なスケジュールを組むより、余裕のある、次回の勉強会が待遠しいと思えるくらいがちょうどよいと思います。ですので、私も、会長の意見に賛成です。」

それ以降も順調に議事は進んだ。しかし、⑦の買い出しが問題だった。

 

第18章 食材の買い出しの問題

勉強会のメニューは、『高齢者のための季節の献立集』の予定に合わせれば何も迷うことはない。例えば、4月20日に勉強会をするとしたら、「春の献立集(第3週)20日」を見れば良い。

朝食 ごはん キャベツと卵の炒め物 小松菜のごま和え

昼食 のり巻き・納豆巻き(市販) けんちん汁 果物

夕飯 ごはん すき焼き風煮 長芋の梅和え

ただ、朝昼夜のどれを選ぶかだが、基本的には夕食が当然良いと思う。なぜなら、日本人は夕食を3食の中で最も重視しているからだ。

理想の食事摂取カロリーの割合は、朝:昼:夕=3:4:3とされているそうだが、日本人でどの位の人がこの割合での食事をしているだろうか。私が現役の頃、車の中でお握りを食べながら出勤するという同僚がいた。ある独身者は、朝飯を食べる時間があるなら、寝ている方がましだと言った。日本人は、朝食を大切に考えている人が少ないと思う。

買い出しの議題になると、急に騒がしくなった。

○具体的なレシピがない料理では、何の食材を買えば良いのか分からない。

○どの位の量を買えば良いのか分からない。

○膝や腰が悪く重いものが持てない。

○スーパーに食材がなかった場合どうするのか?

他にも色々意見はあったが、主なものは以上だ。この問題については、私も大川さんも良い解決法は直ぐには浮かばなかった。ふいに大川さんが、立ち上がって言った。

「確かに、この献立表にレシピが載っていない料理があります。私も、何の食材をどれくらい用意すればよいのか正直分かりません。この解決法は、勉強会の前に、一度試作をすることが一番良い方法だと思います。

一度試作をすれば、何が必要か、どの位の量が必要かなど分かります。また、勉強会をより効率的に進めることにもなります。ですので、私よりも献立に詳しい管理栄養士だった加藤さんに相談したいと思います。次回までには、ご報告できるように致します。

また、膝や腰が痛くて重い物が持てないという方がいらっしゃいましたが、一人での買い出しでなく複数の方での買い出しにすれば解決できると思います。集合場所と時間を決めておけば良いと思います。また、必要な食材がなかった場合は、私か加藤さんにご連絡をくだされば、ご返事できるようにしたいと思います。」

大川さんが、一人で解決してしまった。すごい人だなと感心してしまった。

⑧の食材などの費用の支払いの件についてだが、準備金として一人2,000円を第1回勉強会前に徴収し、先ずそのお金でクーラーボックスを買うことにした。保冷材は、家に余っている人が数名いて寄付してくれるという。第一回目の勉強会の買い出しは、残りのお金で十分間に合う。その第1回目の買い出しは、私と大川さんが担当することになった。徴収したお金を私が受け取り、買い出し後に領収書とお釣りを「会計係」に渡すということになった。私は「会計係」が必要なことが、今になってやっとわかった。この役は講師役の大野さんが引き受けてくれることになり、収支報告は「なのはな会」で共有するブログで随時大野さんが更新してくれることになった。尚、当日の費用は人数分での割り勘にすることで決定した。

⑨の講師役の人からの費用徴収についてだが、当日の分は講師役の人からも負担して貰うことにした。ただ、試作用の食材等については1回毎に500円の補助金を会から支払うこととした。なので、当日の負担金にはこの500円も含まれる。試作は、多分大川さんと元管理栄養士の加藤さんがすることになるだろう。⑩のクーラーボックス及び保冷材の件は、複数の買い出し担当者を勉強会終了後に決め、その担当者が管理することに決まった。

予定より少し時間は伸びたが、話し合いは順調に進んで終わった。

 

第19章 よみがえる恋心

私と大川さんはクーラーボックスを買うため、ある日近くのホームセンターで待ち合わせた。

私がホームセンターの駐車場に入り空いている場所を探していると、大川さんが走って来て空いている場所を教えてくれた。私は迷いなく駐車することができた。

「どうもすみません。ここの駐車場はいつも一杯で停めるのが大変で、お蔭で助かりました。」

私がお礼を言うと、大川さんは嬉しそうに微笑んだ。

クーラーボックスのサイズはいろいろあって、私にはどの位の大きさが良いか見当がつかなかった。私が下調べをしてこなかったのに気付いた大川さんは、キャスターの付いた48リットル用のクーラーブックスを指さして言った。

「小松さん、約10人分の食材を入れるとなると、キャンプに行く訳でありませんが、この大きさが必要だと思います。魚や肉などの常温では傷みやすい物だけといってもかなりの量になりますし、後から買い直すより少し大きいかなと思う位でちょうど良いと思います。それにキャスターも付いていますので、足腰に負担を掛けないで買い物が出来るので、きっと皆さんに喜んでいただけると思います。」

大川さんは流石だと感心してしまった。何の予備知識もなくやって来た私は、少し恥ずかしかった。このクーラーボックスの料金は約6千円だったが、金額的にも特に問題はないと思い私は賛成した。ホームセンターでの買い物を終え、クーラーボックスを抱えたまま、私は大川さんにお礼を言った。

「大川さん、どうも有り難うございました。私一人で来たら、きっと小さすぎる物を買ってしまったと思います。本当に助かりました。それでは来週また!」

私が車に向おうとしたその時、大川さんが後ろから声を掛けた。

「小松さん、もしお時間がありましたら、少しだけ私に付き合って頂けませんか?『なのはな会』の第1回目の献立の試作の食材を今から買いに行こうと思っているんです。」

もちろん私は喜んで承諾した。試作の献立は「高齢者のための季節の献立集」春の献立表2週目12日の夕飯だった。いつものスーパーに行くと、大川さんはバックから白い紙を取り出した。食材が詳細に書いてあった。試作をするということは、その食材の購入だけでも大変な負担を強いるとは考えてもみなかった。

私は大川さんのマイバスケットを乗せたカートを押して、紙を見ながら歩く大川さんの後を付いて回った。大川さんは食材をカートに入れると白い紙にチェックした。私の買い物は、売り場を良く理解していないので、同じ所を行ったり来たりを繰り返すが、大川さんの買い物は要領が良かった。

第1回目の「なのはな会」のメニューは、回鍋肉・たまねぎとニラの中華和えだった。私は回鍋肉という料理は初めて聞く料理名だった。多分大川さんはネットで調理法を調べ、食材をメモして来たのに違いない。そうでなければ白い紙にあれ程事細かに書かれている筈がないと思った。

私と大川さんが二人で買い物をしている時、パソコン仲間の一人と会ったが、「なのはな会」の試食用の食材を買い求めていることに、「ご苦労をお掛けします。」と感謝の言葉を残し、忙しいのでと草々に帰って行った。私と大川さんが二人でいても、また買い物をしていても、多分誰も不自然とは思わない。「なのはな会」の会長と講師役が会の活動をしていると思うに違いない。

妻が生きていた頃はよく二人で買い物に出かけ、いつも私が今日のように買い物籠を持って歩いた。私の好物の食べ物を籠に入れるとき、いつも妻は私の顔を見ながら微笑んだ。大川さんも、食材を籠に入れるたびに私に笑顔を向けた。

それにしても、妻以外の女性と二人だけで買い物をするのは、大川さんが初めてだった。妻の生存の頃を思い出し、妻と買い物をしているような錯覚に陥った。確かに大川さんは妻に雰囲気が、そして仕草までもが似ている。

 

第20章 「なのはな会」第1回勉強会

第1回目の「なのはな会」の勉強会には、定年前に病院で管理栄養士をされていたという加藤さんが初めて参加した。加藤さんは簡単な自己紹介の後、「なのはな会」の仲間に入れて嬉しいと感謝の言葉を述べた。大川さんが、高齢者の食事の問題について一言お話ししてくれませんかとお願いすると、加藤さんは以下のような話をしてくれた。

〇 健康で長生きするためには食生活が大切であり、老化の大きな原因は栄養が足りないことにある。現役世代は肥満やメタボが健康上懸念されているが、高齢者においては低栄養・低体重の方が問題視されており、バランスよくしっかり食べることが高齢者の食の基本である。

〇 1人暮らしの高齢者の孤食は食事を楽しむという意識が乏しく、その結果食事を作ることが面倒になり、惣菜や弁当の利用頻度が高くなっている。また不規則な生活の影響で、1日に2食と食事回数が減っている高齢者も多い。(栄養のバランスが悪く、またエネルギー摂取量不足の原因)

〇 「千葉県の高齢者のための季節の献立集」はバランスのよい食事ができるように考えられており、また旬の食材を取り入れた春夏秋冬にあわせたレシピとなっているので、「なのはな会」の教科書として相応しい。

〇 「なのはな会」で料理を勉強することは、考える・手指を使うということになるので、認知症予防の効果がある。また仲間と楽しく食事することは、体の健康だけでなく、大きな心の栄養にもなる。

加藤さんは、約7~8分間ゆっくりと、分かり易く話してくれた。そして最後に、「この『なのはな会』発展のために微力ですが、お役に立てるよう頑張ります」と言って着席した。真剣に聞いていた会の皆は、一斉に拍手をした。私もさすがに栄養士の人はすごいと感心してしまった。

続いて大川さんから説明があった。いよいよ料理勉強会に入る訳であるが、今回は初めてなので、デモンストレーション方式での勉強会にするとのこと。どういうことなのか、私もまた他の仲間も分からなかった。

結局、大川さんと加藤さんが全員の前で今日の料理を一度作って見せるということらしい。その間、メモを取ったり、質問をしても良いということだった。これなら分かり易く、私たち高齢者にはとても嬉しい方法だった。

この公民館の調理実習室は午前10時から午後3時まで借りているので、時間的に充分余裕があり、料理初心者が多い私たちの「なのはな会」の勉強方法として理想的な形態だった。

デモンストレーションの前に、今日のタイムスケジュールと班分けの発表が大川さんよりあった。本日の参加者は大川さんと加藤さんを含め9人であった。そのため3つのテーブルに3人ずつの配置となった。班ごとに分担をしながら調理をするスタイルとのこと。比較的高齢の班に大川さんと加藤さんがそれぞれ入った。

今日の献立「回鍋肉・たまねぎとニラの中華和え」のデモンストレーションはスムーズだった。これは、一度大川さんが試作をしているからだと思う。二人が次々に食材を切り分け調理するのを、私たちはじっと見つめていた。レシピを見れば分かることだが、実際に作るところを見るのと、紙のレシピを見ながら作るのとでは全然違う。

初めに「回鍋肉」を作って見せてくれた。合わせ調味料の作り方は、私たち男性には少し難しく感じられた。それでもキャベツやにんにくの切り方、また油を引いたフライパンににんにくを入れ、香りが出たところで豚肉を入れる、その順番やタイミングなどを掴もうと、男性だけでなく全員真剣だった。

 

第21章 恋心の驚きの進展

第1回目の「なのはな会」は大成功だった。加藤さんが「高齢者の食事における低栄養とエネルギー摂取量不足の弊害」を1番に話してくれたので、「なのはな会」全員が勉強会に気合が入ったからだ。それにしても、調理終了後に仲間で楽しく作った料理を、和気あいあいと食べるのは本当に美味しかった。いつも一人で作る料理とは、およそかけ離れた素晴らしい献立であり味であった。誰かが嬉しそうに言った。

「次回の『なのはな会』が待ち遠しいね。今日貰ったレシピは、バインダーに挟んで台所で保存するよ。それに忘れないうちに、明日にでも、もう1回作ってみるよ」

「なのはな会」の勉強会の後片づけも済み、私は全員と挨拶をして家に帰った。帰るとさっそく仏壇の妻に今日の報告をした。そのとき、妻が微笑んでいるような気がした。どうして妻が喜んでいるのか考えてみた。私は、ハッと気が付いた。

変わったのだ。「なのはな会」の誕生の頃から、私には生きる力が出て来た。生きる張り合いが湧いて来た。以前、派遣の仕事も含めて、生きて行くことに自信を持てなくなっていた。働こうにも派遣会社も派遣先も、私を決して人格のある人間というよりも、単に仕事量から割り出した頭数としか見てくれない疎外感に苦しんだ。また知力も財力もないこんな自分に、生きて行くことに意味があるのかと真剣に悩んだ。

今はどうだ。「なのはな会」という小さな会だが、私は会長になって、少しでも会員のお役に立とうと頑張っている。いつの間にか、それが生きがいになって、生きる張り合いになっている。別に有名になった訳でもないし、お金持ちになった訳でもない。それでも、生きることが楽しくなってきた。

生きるために仕方なく呑み込んでいた食事が、楽しいものになってきた。いや食事自体よりも、作ることが楽しくなってきた。

先日の話に戻るが、「なのはな会」の勉強会の後反省会をし、大川さんが今回の勉強会で足りなかった調味料や使い捨ての食器などを購入したいと申し出た。私や会計の大野さんを始め、全員意義はなく、大野さんから2千円を大川さんが受け取った。

駐車場で、私は大川さんに聞いた。

「私、時間がありますから、ご一緒しましょうか?」

大川さんは「ぜひお願いします。今日は、少し遠いお店まで行きますので、1台の車で行きましょうか?」と言った。

公民館の邪魔にならない場所に大川さんの車を駐車し、私の車で行くことにした。大川さんはいつもの笑顔で私の車に乗った。大川さんが道案内をしてくれ、目的のお店まで20分くらい走った。私は緊張していた。妻に似ている、そしていつも私に笑顔を向けてくれるこの人に、私は好感を持っていた。だが、なぜこんなに緊張するのか、私にも分からなかった。

それからしばらくしたある日、私は自宅でレシピを見ながら昼食を作ったがどうも不味い。ちゃんとレシピ通りに作ったつもりだったが、食べられるものではなかった。再度作り直してみたが、やはり不味かった。こういう時、最近の私は大川さんに相談することが多くなった。大川さんから都合の悪い曜日や時間帯は予め聞いていたので、もちろんその時は避ける。

大川さんに電話すると、「もし宜しければご自宅に伺って私が作ってみましょうか?」と言う。私は一瞬動揺したが、ぜひお願いしますと答えた。20分程してから大川さんは我が家の玄関のチャイムを鳴らした。

最近の私は、新聞や雑誌などを見るときは老眼鏡をかけている。しかし料理をするときは、メガネが曇ってしまうことがあるのでかけていなかった。大川さんがレシピの合わせ調味料の作り方を私に尋ねた。私に間違いはないという自信を持って、私は何度も作ったそのやり方を話した。

「小松さん、一つ大事なことを忘れています。この『豚肉とキャベツのさっと煮』のレシピは二人分のものです。小松さんは一人分の食材なのに、合わせ調味料は二人分の量です。これでは味が濃すぎます」

私はびっくりした。考えてみると、確かにその通りだった。大川さんの指導でも一度作り直して、小皿で味を見ると美味しかった。二つ目の「れんこんとにんじんの甘酢漬」は、初めから大川さんに作ってもらった。パソコンで下調べはしておいたのだが、どうも自信がなかった。

二人で少し遅い昼食となった。やはり、女性には料理については適わないと思った。

「小松さん、女性でも初めての料理は自信などありませんよ。一度作れば反省点が必ずあります。2回目はそこを注意すれば良いだけの話しで、男性だって大丈夫ですよ。プロのコックさんに男の人が多いのは、反対に男の人の方が料理に向いているのではないでしょうか?」

なるほどとまた感心してしまった。ここで私は大川さんの息子さんのことが心配になった。私のせいで、息子さんが昼ご飯を食べられないでいるのではと心配になった。しかしその心配は杞憂だった。大川さんは、出がけに息子さんの食事は用意して来たらしい。今日は、時間の心配はありませんと笑顔で言った。

使いこなした古いソファーで、私と大川さんは昼食後のコーヒーを飲んでいた。こうして二人で面と向かって相対するのはもちろん初めてだった。世間のありふれた特に意味のない会話をしていたその時、急に大川さんが話題を変えた。

「これからの日本人は、癌になる人が2人にひとりだそうです。そうすると私も癌になる可能性が高いですよね。私癌にはかかりたくないんです」

大川さんがひどく心配そうに言ったので、私は何とか気分を変えてあげようと思った。

「癌にかかる割合は高いかも知れませんが、大川さんがそうなるとは決まったことではないので、余り心配してもしょうがないと思いますけど。また、術後の5年生存率も大分伸びたそうですよ。

ああそうだ。以前、ショッピングセンターの書店で買った癌に関する本を何冊か持っています。妻が亡くなってから買った本です。もっと早く読んでおけば良かったと思いました。柳田邦夫という人が書いた本で、3冊位ありますからお貸しします。持って帰って、時間があるとき少しずつ読んでみて下さい。もう随分前に書かれた本ですが、基本はしっかりいていますので、勉強になると思います」

私はソファーの後ろの本棚から柳田邦夫氏の「死の医学への序章」「死の医学の日記」「癌回廊の明日」、この三冊を取り出そうとした。大川さんに触れないよう少し無理な体勢から体を伸ばした私は、あろうことか大川さんの体へと倒れ込んでしまった。

外は雨が降っており、部屋のカーテンは閉めたままだった。

大川さんは驚かなかった。私が「ごめんなさい」と慌てて立ち上がろうとすると、大川さんは「少しの間このままでいて下さい」と私の肩に腕を回して言った。私の顔と大川さんの顔は何センチも離れてはいない。そう言うと大川さんは眼を閉じた。

私には今の状況が理解できなかった。ただ、大川さんが私に対して好意を持っていてくれたことは確かのようだ。私の顔の前には目を閉じた大川さんの顔があり、唇があった。私はその時妻を忘れ、彼女の唇に自分の唇を重ねた。

暫くそうしていた。だが、私は妻以外の人を知らないし、こういう状況を全く予想していなかった。その先には踏み込むことは出来なかった。

やっと、二人は起き上がった。テーブルの上のこぼれたコーヒーを拭いている大川さんの顔を見て驚いた。頬が涙で光っていた。

 

第22章 涙の真相

私は、どういう態度をすれば良いのか分からなかった。この時の私は63歳であり、我が身の出来事のすべてにおいて、既に達観していなくてはならない年齢の筈だった。ところが、この体たらくぶりには自分でも情けなさを感じずにはおれなかった。

テーブルの上のこぼれたコーヒーを大川さんが拭いている間に、私は台所に行き、再度お湯を沸かした。私は豆から挽いたコーヒーを飲むほど洒落てはいない。インスタントのコーヒーだ。だが瓶に入ったあるメーカーのインスタントコーヒーだけは、私にはとても美味しいものだった。

別な2つのコーヒーカップをテーブルに運び、大川さんに勧めた。大川さんは小さな声でお礼を言った。

いつも笑顔を私に向けてくれる、いつもの大川さんではなかった。だがもう涙は乾いていた。下を向いたまま、大川さんは私の顔を見ずに話し始めた。

「小松さん、今日はごめんなさい。すみませんでした。小松さんの奥さんが癌で亡くなられたのを知っていて、小松さんご夫婦の一番つらい話題を出して申し訳ありませんでした。私が、つい、癌にだけはなりたくないと口を滑らせたのは、一人息子を考えたからです。今の生活には少しの余裕もないうえに、癌ともなれば、手術の費用や治療費が大変だと思います。

また、お金の問題だけでなく、私が入院と言うことになれば、きっと息子は食事をきっちり摂ることも無理でしょう。一人、家の中に閉じこもっている息子は、今より更に悪い状況になってしまうと思います。二人に一人が癌になる時代と聞き、つい悪い方へと考えてしまうようになりました。」

ここで、大川さんはひとくちコーヒーを口に運び、更に話し出した。今度は、恥ずかしげな女性の姿が感じ取れた。

「私、中学生の1年の時、クラス委員のTさんという方に憧れておりました。とても勉強が出来る人でした。私は、Tさんに注目されたいと考え、私も勉強に打ち込みました。ですが、ぜんぜん適いませんでした。できればTさんと同じ高校に行きたかったのですが、Tさんは県立の有名校に進学し、私は別の女子高に進学しました。それから会うことはありませんでした。

幼い人間と思われるでしょうが、パソコン教室で初めて会った時の小松さんは、Tさんかと思ったくらい良く似ていて驚いてしまいました。その日、床に落としたハンカチを拾い私に渡してくれた小松さんに、私は昔の中学生の頃を思い出して小松さんがTさんのような錯覚に陥りました。

ちょうどその日は私の車が車検で、来るときは別な方に迎えに来て頂いたのですが、帰りは小松さんが送ってくれることになり、私はとても嬉しくてなりませんでした。ですから、今度またこういう時は連絡くださいと小松さんから言われた時は、すぐ小松さんの電話番号を登録させて頂きました。何か子供が宝物を手に入れたようなそんな気持ちでした。

でもそんな中学時代のTさんの姿ではなく、途中から「なのはな会」に力を尽くす小松さんにだんだん魅かれて行きました。ときどき料理の作り方のことで電話を貰うのはとても嬉しいことでした。今日、小松さんから相談があった時、小松さんと二人きりになれると思うと嬉しくて、ご自宅まで押しかけてしまいました。」

そこまで話すと、少しピンクに染まった頬を大川さんはハンカチで隠した。大川さんの私への愛の告白は信じられなかった。私は迷った。私も大川さんと同じ気持ちであるのは確かだけれど、ここで私が正直な心の内を曝け出すことは怖かった。ここは我が家で、愛する妻の仏壇がある。

私は、「これからもパソコン教室や『なのはな会』で頑張りましょう。『なのはな会』は大川さんが主役ですから、期待しています。」と逃げた。

大川さんは時計を見ながら「もう、こんな時間?」と言った。そして、「奥さまの仏壇にお線香をあげさせて貰っていいでしょうか?」と私に尋ねた。私は、6畳の仏間に彼女を案内した。

ずいぶん長い間、大川さんは妻の仏壇に手を合わせていた。妻と会話をしているような、そんな雰囲気だった。

やがて頭を上げた大川さんは、先ほどの居間に戻ると私が貸した3冊の本をバッグに入れ玄関に向った。大川さんは、玄関の扉を開けようとする私に頭を下げながら言った。

「今日はすみませんでした。ありがとうございました。でも、正直嬉しかったです。」

その言葉に、私は思いもよらぬ行動に出た。心の底にしまい込んで置こうとした感情が、まるで何かに突き動かされたように。バックを持ったままの大川さんを抱きしめたのである。大川さんはバックを床に置き、私の胸に顔をうずめた。  

 

第23章 高齢者の性の問題

私が50歳になった頃、妻と寝室を別にした。妻と諍いがあった訳ではない。私はその年になってもまだ昼夜交代勤務をしていた。この年になっての夜勤の疲れは、数日尾を引く。そういう状況の中、会社は私をあるチームの副責任者に抜擢した。

中卒と言えでも、私には長い経験がある。そしていつも真剣に仕事に向き合う。有給休暇を取った覚えも殆どない。その辺が評価されたらしい。本来の仕事の他に、部下の指導や会議の資料作りなどで忙殺された。夜遅く妻が読書を終えて、私の隣の布団に潜り込むかすかな音にも、私は目が覚めてしまうほど、心身ともに疲弊していた。そんな状態のある日、妻が言った。

「お父さん、最近大分疲れているでしょう?私には良く分かります。夜も、熟睡できないみたいだし。ご飯もあまり進まないし。私は、心配で・・・。お父さん、夜勤の仕事が免除される55歳になるまで、お父さん、別々の部屋で寝ましょうよ。別々と言っても、隣の部屋だし。夜は、気兼ねなくゆっくり休んで欲しいんです。」

その日から私たち夫婦は、寝室を別にした。この時期には、私たち夫婦には夜の営みは既になく、私は妻の意見に従った。

話しを元に戻すことにする。現在、私は還暦を過ぎた63歳の高齢の身である。妻と寝室を別にする以前から、私は既に“男”としての自覚はなかった。友人とそういう性に関する話はしなかったし、世間の平均的な夫婦の性生活についての知識もなく、特に関心もなかった。

大川さんと親しくなって、初めて自分は“男”であるということを、今更ながら意識せざるを得なかった。それまでは、妻以外の人を好きになったり、ましてや抱きしめたりすることなど、夢でさえも考えられないことであった。

私は、高齢者の性について考えてみることにした。私は男なので、特に女性の性に関する意識について知りたかった。ただ、大川さんは、50代の後半である。高齢者ではない。しかし、女性として基本的には同じ筈である。

-人間の欲求について-

人間の欲求には体と心の2種類の欲求があるという。一つは生理的欲求であり、もう一つは社会的欲求であるという。

1、生理的欲求とは、食欲・睡眠欲・性欲の3大欲求である

2、社会的欲求とは、おおよそ次のような事である

  〇お金や財産がもっと欲しい

  〇他の人より優れていたい

  〇尊敬されたい

  〇集団に加わりたい

  〇嫌いな人を排除したい

この生理的欲求の3大欲求の中で特に問題なのは“性欲”である。眠れない、食欲がない等の悩みは、少し親しい間柄なら誰に対しても恥かしくなく平気で相談できる。家族なら尚更だ。しかし、“性の悩み”だけは相談すら難しい。まして老人の身では「いい年をして!」と罵倒される恐れさえある。

-高齢女性の性に関する意識について-

〇ある有名女性評論家の性への意識

いつだったか、有名な女性評論家が、新聞の人生相談の回答で女性の性について語ったことを覚えている。この評論家は高齢の方であったが、今でも恋愛について憧れていると言う。しかし自らの高齢から招いた容姿や、社会的立場から諦めているという。私は思った。高齢で、しかも高い見識のある女性でさえも、やはり性には関心があるのだと。この有名な評論家は自らの肩書に縛られることなく、素直な心を曝け出して、相談者に向き合う姿には感動した。

〇大岡越前の母の性への意識

また性についての「大岡裁き」とう有名なエピソードがある。江戸時代、大岡越前守が、不貞を働いた男女の取り調べで、女性からの誘いに乗ってしまったとの男の釈明に納得がいかなかったという。その訳は、被告の女が40代の年増女であったからである。江戸時代で40代ならば、現代の感覚に変換すると60代以上に匹敵するかも知れない年である。その女が、男を誘うこと等あり得ることなのか?このことがどうしても気になった大岡越前は、誰かに聞く訳にもいかず、悩んだあげく母に尋ねた。

『母上、おなごというものは、一体いくつになるまで殿方と閨房にて睦み事をなさりたいと思うのでございますか?』

それを聞いた母は、無言で火鉢の中の灰を差して席を立ったという。その所作を見て、大岡越前は悟った。女性の性欲とは、死んで灰になるまであるものだと。これで疑問がすべて解けた大岡越前は、お白洲での裁きを申し渡したそうだ。

私は個人的に、ある老人施設で入所者の男女が裸のまま抱き合っていたという話を聞いたことがある。また、こうした施設の中での男女間のトラブルが多いということも聴いたことがある。

以上のことだけで、すべての女性に当てはまるとは言えないけれど、高い確率で真実を現しているのではないかと思う。であれば、おおよその女性は何歳になっても性に対する欲求があるということになる。大川さんの私に対する好意には、そうした欲求が無意識にでも働いているのだろうか?あるいは私の独り相撲で、そうした考えなど大川さんの深層心理にさえ微塵もないのかも知れない。もっとも、私には“男”としての機能は既に失われている可能性が高い。

私は、これからどう大川さんに接していったら良いのか、皆目見当がつかなかった。

 

第24章 二人だけの夕食

第1回目の「なのはな会」後の反省会で、第2回目は4月の25日と決めてあった。「高齢者のための季節の献立集」の春の献立表第4週目の25日は、「カジキの鍋照り焼き」と「わかめとキャベツのからし和え」の二品だった。

昨日、大川さんから私に電話が入った。第2回目の「なのはな会」の試作は大川さんと加藤さんとで話し合い、加藤さんが一人で行う筈であったが、講演やその他の用事が続いたため、大川さんに代わって欲しいという連絡があったとのこと。大川さんの要件は、明日試作をしたいが、私の家で作らせて貰っても良いかということだった。

私は「作り方を見せて貰えるので、私にも都合が良いですね。」と返事をすると、大川さんは食材をスーパーで買った後、11時頃に伺いますと言った。

次の日、大川さんは約束通りの時間にやって来た。今日は3人分を作るという。大川さんと私と、それに大川さんの息子さんの分だった。それなので、作り終わったらすぐ帰るという。感想は、電話で知らせて欲しいとのこと。

大川さんは、調理師の資格を持っているだけのことはある。手際が良いのである。ボールに酒・醤油・みりん・砂糖を適量入れて煮汁を作る。終えるとすかさずフライパンに油を大さじ半分注ぎ、熱するとメカジキを入れた。見た目の良い焼き加減で、カジキを返した。時期を見て煮汁を入れた。私でも出来そうであった。わかめとキャベツのからし和えも、素早く作り終えた。からしはチューブに入ったものを4㎝位醤油で溶かした。

次回の「なのはな会」の献立の試作は、大川さんの手に掛かるとあっという間に出来上がってしまった。大川さんは、自宅から食器を持って来ていて、3人分を平等に分けながら言った。

「厚かましくお邪魔してすみませんでした。でも、料理って意外と簡単でしょ?小松さんに少しでも、調味料の合わせ方など見て、覚えて貰えたらと思って」

大川さんは時計を見た。フライパンやその他の食器は私が洗うことにして、大川さんには温かい内に息子さんに食べて貰うため、急いで帰ってもらうことにした。玄関を出る前に、私は大川さんを抱きしめて唇を合わせた。大川さんは、私の背中に腕を回した。

あくる日の夕方、私の携帯電話の音が鳴った。大川さんからであった。息子の夕飯の用意も済んだので、今から伺っても良いかと言う。私は何事かと一瞬緊張したが、大川さんの声は弾んでいるようにも聞こえた。

私が夕食の献立を何にしようかと、冷蔵庫の中を物色した。豆腐と納豆、ウインナソーセージ・ハムの薄切り・卵などが入っていた。野菜室には、ネギ・きゅーり・ミニトマト・人参・キャベツ・シイタケが入っていた。冷凍庫の中には、鮭・コロッケ・ハンバーグ・さんま等が入っていた。

私が思案していると、玄関のベルが鳴った。普段着で玄関に立つ大川さんは、いつもの大川さんで私は安心した。

今から、夕飯の支度をするのだけれど、何を作ったら良いか分からなくて困っていると話すと、大川さんは「冷蔵庫の中を見せて頂いていいですか?」と言い冷蔵庫の中を見渡した。少し考えてから、大川さんは「ちょっとスーパーに行って来ます。すぐ戻りますから」と言って車で出掛けてしまった。

大川さんが帰って来るまでの時間はたぶん20分位だったと思うが、私には長く感じられて何をしていいのか分からず、ソファーに座り足を組んで待つしかなかった。

「ただいま!」

大川さんの声が聞こえたときは、嬉しくて玄関に走った。いつものスーパーのビニール袋を下げ、大川さんは息を切らせて入ってきた。さっそく台所に行き、袋から取り出したものは、カニカマ・片栗粉・和風ドレッシング・オリーブオイルなどであった。大川さんは、何かのメニューを考えて足りないものを買って来てくれたようだった。

「何の料理を作るつもりですか?」

私は、期待を込めて質問した。大川さんは、「豆腐にふんわり卵あんかけと温野菜サラダを作ります」と言って、溶き卵を作り、それからカニカマを指でほぐした。豆腐は半分に切った。鍋に水を入れ沸騰させ溶いた片栗粉を入れとろみをつけた。動きに無駄がなく、15分位で「豆腐にふんわり卵あんかけ」は完成した。その後に、床下のじゃがいもや冷蔵庫のキャベツとニンジンを使い、やはり15分位で「温野菜サラダ」も完成した。

今日の夕飯は、いつもの「孤食」ではなく「嬉食」だった。私が愛した妻の面影を宿した大川さんとの食事は、まるで妻が元気だった頃に戻ったかのような錯覚に陥った。そのことに多少引け目を感じながらも、今の私は大川さんに心を奪われていた。

初めての大川さんとの二人だけの夕食は決して豪華ではなかったけれど、私には至福の時間だった。ソファーに体を沈めた大川さんを制して、私はコーヒーを入れに台所に向った。いつものインスタントのものではあったけれど、二人で飲むブラックコーヒーは、いつにも増して美味しく感じられた。

私は、向かいの席から大川さんの隣に席を移した。大川さんは、とても落ち着いた雰囲気で、食後の余韻を楽しんでいるかのようだった。私が隣に座ってもさも美味しそうにコーヒーを口に運んでいた。

大川さんがコーヒーカップをテーブルに置いた瞬間、私は、またふいに大川さんを抱きしめた。大川さんはうろたえることもなく、その体を私に委ねたかのように静かに目を閉じた。私は、彼女の唇の感触を楽しみながら、これで良いのだろうかと不思議に冷静だった。

 

第25章 二人だけの誓い

私は、次の行動に出ようとしたけれど、私の体は意志に背いて反応しなかった。私の愛する妻の仏壇がある家の中での行為は、無意識に妻に対する背信行為という後ろめたさが私を萎縮させているようだった。

私は、気まずい思いのまま、大川さんから体を離した。大川さんは、無言だったけれど、私を責めるというような雰囲気ではなかった。むしろ、自分から押しかけ、暗に誘ったというような照れの表情にさえ見えた。

大川さんは、30代で事情があり夫と別れ、一人息子を育ててきた。大川さんなら、言い寄ってきた男たちも大勢いたことだろうと思うが、大手の運送会社で事務員として働き、息子を大学まで進学させた。その息子は、今引きこもりとなって一日中家の中にいる。

「私、将来のことを考えると、息子と二人で死んでしまいたいと思うことがあります。このまま私が高齢になり働けなくなったら、息子はどうなるのかと思い枕を濡らす毎日でした。

でも、パソコンの勉強会や「なのはな会」に力を尽くす小松さんを好きになってから、私にも生きる力が湧いて来ました。こうして、小松さんの家まで押しかけて来て、本当はご迷惑なのではと思いながら、小松さんの優しさに甘えてしまいました。

小松さんに抱きしめて貰い、乾いた土に降る雨がどんどん滲みて行くように、私の心に空いていた女の幸せが溢れていきました。心がときめきました。30代や40代の世間でいう女盛りの時、体が火照って狂おしい時もありましたが、気が付くと私はもうおばあちゃんになっていました。

正直にお話ししますと、小松さんを好きになってから、失ったあの頃の自分を想いだしました。私も、まだまだ女なのだと気付きました」

そこまで話すと、喉の渇きを潤すように冷めたコーヒーを口に運んだ。女の大川さんにそこまで言わせた私は、やっと重い口を開いた。

「大川さん、ありがとう。私は初めて大川さんにパソコン勉強会で会ったときから、気になっていました。私も正直に言いますが、大好きだった妻にとても良く似ているのです。顔や姿という訳ではなく、ちょっとした仕草が妻そっくりで、さっきも夕飯を食べながら、一瞬元気だったころの妻と食事をしているような錯覚に陥りました。

でも、妻に似ているからではなく、今の大川さんが好きなんだとこの場で自信を持って言えます。私も、大川さんが大好きです。

私も大川さんに会うまでは、拗ねていました。財産もこれと言った能力もない私なんか生きていてもしょうがないんじゃないかと、半ばうつ病のように涙もろく虚ろな毎日でした。

しかし、大川さんに会うようになってから、私は生きる張り合いが持てるようになりました。今では『なのはな会』の会長として少しは皆さんのお役に立てるようにもなりました。これは、すべて大川さんのお蔭です」

私は飾らずに自分の気持ちを打ち明けた。大川さんの顔を見ると、みるみる内に大きな涙を頬に溢れさせた。ハンカチで拭いながら、今度は大川さんが話し始めた。

「初めて小松さんの家にお邪魔させて頂いた日に、私は小松さんの奥様の仏壇にお線香を上げさせて頂きました。その時、私は奥様とお話をしました。本当です。

私が小松さんを好きになってもいいですかとお聞きしましたら、奥様は笑顔でよろしくお願いします、とお答えになられました。奥様は、私に小松さんの面倒を見て頂きたいと逆にお願いをされたのです。私は、もちろん奥様のことは仏壇のお写真でしか知りませんが、確かに奥様は私に語りかけてくれたのです。

奥様のお許しを得た私は、小松さんに積極的になりました。そして生きることが楽しくなってきました。今日も、私は嬉しくてたまりませんでした。心の中で、奥様に感謝しました。

私も女です。小松さんに抱かれたいとさっきまで思っていました。でも、小松さんは躊躇されました。その訳は私には分かりませんが、私も気付きました。私には一人息子がいます。この息子を独り立ちさせない限り、私だけが幸せになることは許されないと、今気付きました」

私が躊躇した訳は、妻への背信と言って良いかと思う。しかし驚くことに大川さんは、私の家を初めて訪れたその日のうちに、仏壇の妻と会話をし、許しを得たと言う。私は、仏壇の妻と話をしたという大川さんの言葉を信じた。私にも、似たような体験がある。理屈などでは説明できないことなのでここでは省く。

「大川さんの気持ちは良く分かりました。それに妻も大川さんならと許してくれたそうですから、これからは、誰に気兼ねすることなく大川さんと齢を重ねて行きたいと思います。息子さんが独り立ちするまでは、私もそのために出来る限りのことをさせて頂きます。そして、その日までは、大川さんを抱くのは我慢します」

私の言葉を聞いていた大川さんは、涙のまま私にしがみついて来た。私は、大川さんの髪を撫でながら、今後のことを考えた。

先は長い!大川さんの息子さんが独り立ちするまでは、私も大川さんも健康でいなければならない!今の私たちは、栄養(料理)については学んでいるけれど、もっと積極的なアクションが必要なのではないか!それが何なのかを知るまでに時間は掛からなかった。

 

第26章 引きこもりの現状

私と大川さんの想いが重なり、二人の生きる方向が見えてきた。しかし、今二人の前には乗り越えなければならない大きな壁が立ちはだかっている。

私は引きこもりについてネットで調べてみることにした。

内閣府では、自室や家からほとんど出ない状態に加え、趣味の用事や近所のコンビニ以外に外出しない状態が6カ月以上続く場合を引きこもりと定義している。その定義に基づいた調査結果によると、15~39歳が推計54万1千人、40~64歳が推計61万3千人もいるらしい。

不登校と同様、若年層のイメージが強い「ひきこもり」だが、中高年の方がこれ程とは驚きの数字である。この中高年の引きこもりには、2000年前後の就職氷河期も大いに関係しているらしい。

年齢層によって、その原因に相違があるようだが、きっかけとして大きいのはいじめなどによる「不登校」や人間関係による「退職」。そして「就活の失敗」また病気などで、一つだけでなく様々な要因が絡んでいるらしい。原因を突き止めることより、今いるところからどのようにしたら良い方向に進むことができるか、個々に応じた対応方法を見極めることが大切とのこと。

私の住む茨城県においては、県内の保健所内に「ひきこもり相談窓口」があり保健師が相談に乗ってくれ、また適切な関係機関への仲介などの支援もしてくれるらしい。

また、ひきこもりの親の会をベースに設立された「引きこもり支援NPO法人」もあった。この会は、賛助個人会員や法人の寄付金により運営されているらしく、かなり厳しい台所事情のようだった。とても運営者の良心が感じられ好感を抱いたが、残念ながら地域限定とのことなので、大川さん親子は対象にならなかった。

民間にも、引きこもりの「自立支援」あるいは「自立援助」を謳った施設が沢山あることも知った。こうした施設を利用して、社会に巣立っていく元引きこもりの方も大勢いることだろう。しかし、施設の入所費用はたいがい高額だ。中には、引きこもりの弱者に寄り添うはずの“自立支援施設”が金儲けのビジネスと化し、とてつもない金額の請求などのトラブルも増えているという。

私は大川さんを夕食に誘った。その日の献立は、春の献立表第3週目15日の献立を敢えて選んだ。その献立は「豚肉と野菜のしょうが炒め」と「冷やっこ」だった。今日は、まだ春なのに30度近くにも気温が上がった。冷やっこが美味しいと思ったし、それにこの献立なら私にも簡単だ。

大川さんは、息子さんの食事を用意してから来るという。6時半ごろ玄関のチャイムが鳴った。私はキャベツを刻む手を止めて、急いで玄関のカギを開けた。そこには、飛び切り笑顔の大川さんの姿があった。

「今日は、私が夕飯を作りますから、ソファーでテレビでも見ていてください。20分もあれば出来上がりますから」

私は、テレビの電源を入れながら、大川さんをソファーに腰を降ろさせた。大川さんは、嬉しそうだった。

私はキャベツを刻み終えると、ニンジンを短冊切りにし、次にピーマンの種を取って細切りにした。それから冷蔵庫から豚のこま切れを取り出し、小麦粉をまぶして揉んだ。私は自信があった。お昼にネットで調べた通りに作っているだけだったからだ。

「ずいぶん、お料理じょうずになりましたね」

いつの間にか私の後ろに大川さんが立っていた。私は、自慢げに小さく咳払いをして、大川さんの輝く瞳を見つめながら言った。

「肉野菜炒めは簡単そうですが、適当に作ると歯ごたえが悪くなるので、いろいろ大変なんですよ。野菜は切るときに食物繊維を壊さないようにしないといけないし、それに火の加減も大切なんです」

私よりもずっと料理上手な大川さんに講釈を垂れた。大川さんはニコニコしながら、それは大変ですねと言いながら、食器棚から茶碗や皿を取り出してくれた。私が最後の合わせ調味料をフライパンに入れるころ、大川さんは素早くボールに醤油と砂糖そして酢を入れて混ぜ合わせた。それから生姜とにんにくをみじん切りにし、またニラの葉を刻んで、それらをボールに入れ更に混ぜ合わせた。冷やっこのタレはあっという間に完成した。

大川さんにソファーで待っていてと言いながら、結局は手伝って貰ってしまった。今回は、大川さんにかっこいい所を見せたかったのだけれど。

大川さんは、「豚肉と野菜のしょうが炒め」が美味しいと何度も言いながら、大盛りの皿を空にした。私は嬉しかった。自分のためだけではない食事を作り、喜んで食べてくれる人がいる。そのことが嬉しくて大川さんの顔がぼやけて見えた。独りの、ただ生きるためだけの食事とは天国と地獄の差があった。

食後は、少し贅沢だったけれど、大粒の「とちおとめ」を二人で食べた。甘かった。自分一人なら絶対買わない。でも、大川さんの笑顔が見たくてつい奮発した。

もう午後8時を過ぎている。私は、そろそろ本題に入らなければと姿勢を正した。

「大川さん、今日はとても嬉しかった。二人で食べる夕食は本当に美味しかった!」

一呼吸おいて更に続けた。

「引きこもりについて少し調べてみました。引きこもりの支援は保健所やNPOなどがしてくれているようです。民間にも、宿泊しながらの社会復帰を目指す施設があるようです。

引きこもりの人への対応は、それぞれの事情などにより違うみたいで、私にはどうすれば良いのか見当もつきません。支援してくれる機関やNPOを視野に入れ、快復に向けて、息子さんや大川さんができることから少しずつ始め、信じ、待ちながら『あせらず、あきらめず』の精神で、これから頑張って行きましょう!私も、そのために力を尽くします」

私はつい言葉に力が入ってしまった。最近の二人だけの時の大川さんは泣き虫だ。また涙を流しながら、私にしがみついた。

 

第27章 骨粗しょう症の予防対策

新緑の美しい季節となった。「なのはな会」も、今日で3回目だ。前回の第2回目は加藤さんが講師役の筈だったが、急に忙しくなってしまったとのことで、大川さんと交代したので今回は加藤さんが講師役である。第2回目もとても好評だった。

本日の第3回目の献立は、春の献立集第1週7日目と決まっている。加藤さんとYさんは今頃ス-パーに買い出しに行っていることだろう。私は少し早かったが公民館の予約時間の10時に着いて、公民館の調理室のイスに座り仲間の到着を待った。

携帯のネットで、引きこもり支援のNPO法人の情報などを見ていると、いつの間にか仲間がぞろぞろやって来て、和室でエプロン姿となった。初めの頃は男性陣のエプロン姿が不自然に感じられたが、今ではすっかり板に付いている。私も初めて緑色をしたエプロンを肩から下げた時は恥かしかった。女性の仲間から「可愛い!」などと言われて男どもは自信を持ったようだ。私も然りである。

しばらくして、加藤さんとYさんが買い出しから帰って来た。Yさんが車からクーラーボックスを取り出すのを見て、男の会員が駆け寄りキャスターを引いて調理室に運んだ。

今回も調理実習に入る前に、加藤さんから講話があった。

「皆さん、お早うございます。前回は急にバタバタと忙しくなってしまい、お休みをしてしまいました。申し訳ありませんでした。大川さん、有り難うございました」

深々とお詫びをする加藤さんに、改めてこの人の性格の良さを感じたのは多分私だけではないと思う。加藤さんは、続けて話し出した。

「前回は、高齢者の食事の問題、特に独り暮らしの孤食の弊害についてお話しさせて頂きましたが、今日は『骨粗しょう症』について私が知っていることをお話しさせて頂きます。

皆さんは、『骨粗しょう症』という病名を聞いたことがあるかと思いますが、骨の強度が低下してもろくなり、骨折しやすくなる病気です。この主な原因は女性ホルモンのエストロゲンの欠乏と言われておりますが、その他にも加齢や運動不足も影響しているようです。

ですので、女性だけの病気ではありません。高齢者が大腿部などを骨折しますと寝たきりになってしまう恐れがありますので恐ろしい病気と言えます」

加藤さんは、骨粗しょう症の恐ろしさから入り、次に予防法について話した。予防法は、大きく食生活と運動の二つに分けて分かり易く話してくれた。

食生活では、カルシウムの多い乳製品やそのまま食べられる小魚などと共に、良質のたんぱく質を摂ることの重要性を語り、タバコやアルコールなどのカルシウムの吸収を悪くする物の取り過ぎについて注意を促した。

また、運動については、適度の運動が骨に刺激を与えて新陳代謝を活発にすることにより骨を丈夫にすること等、静かな話し方ではあったけれど説得力があった。

私たちは、加藤さんからたくさんの事を学ぶことが出来る。なんと有難く幸せな事だろう。「なのはな会」に加藤さんを誘ってくれた大川さんにも感謝したい。その大川さんは、今回は黒子役となって、準備に忙しく立ち動いている。

今回も大成功だった。「じゃがいもとスナップえんどうの牛肉炒め」も「トマトしそサラダ」も美味しかった。全員、胃も心も満足しながらお茶を啜った。その時、女性のSさんが、加藤さんに質問した。

「加藤さん、とっても美味しい料理でした。ありがとうございました。ひとつお聞きします。始める前に加藤さんがお話しされた『骨粗しょう症』は私もテレビで見て知っています。今日の献立は、その予防に効果はあったのでしょうか?」

大川さんは立ち上がり、質問した女性に向って話した。

「今日の献立は、『骨粗しょう症』を意識したものではありませんので、特にカルシウムが豊富な食事とは言えません。出来れば10時や3時のお茶の時間に、煮干しやチーズなどの乳製品を毎日少し食べる習慣をつけると良いと思います。煮干しは、5cm以下の小さめの物であれば、苦くなくて美味しいですよ。献立のたびに複数の病気のためと意識しますと疲れてしまいますから、一日の中で総合的に必要な栄養素が摂れるように心がけることが大切だと思います」

すると今度は「なのはな会」誕生の口火を切ったYさんが質問した。Yさんは、独り暮らしなので、とても健康には気を使っているようだ。

「カルシウムをたくさん摂ることと、その時に良質のたんぱく質も同時に摂ることの重要性は分かりましたが、適度の運動とはどういうことを言うのでしょう?」

加藤さんは、Yさんの顔を見ながら言った。

「私は医者でないので、余り自信を持って言えませんが、適度の運動は骨に刺激を与えて新陳代謝を活発にし、骨を丈夫にすると言われています。特に屋外での光を浴びた運動は体内でのビタミンDの合成を促進し骨の生成に役立ちます。

具体的には、朝、夕10分ぐらいずつ、早足歩きを日課にすると大変効果が上がると言われています。私、今回調べて初めて知ったのですが『高齢者のための季節の献立集』を作られた千葉県では、『なのはな体操』と言うオリジナルの体操にも力を入れています。体操は、全身の血行を良くし、肩こりや腰痛の予防も期待できます。

『なのはな会』も体の栄養の面から健康増進を図るのは良いことですが、それだけでなく、積極的な行動も必要だと思います。パソコン勉強会や「なのはな会」の始める前に『なのはな体操』をするとか、勉強会終了後に近くの公園まで皆で歩くとか、そういうことも取り入れたら、より効果が上がるのではと思います。ひいては健康な老後を送ることに繋がると思います」

今回の加藤さんの話しには熱が入っていた。自己顕示欲などの個人的感情は一切感じられなかった。加藤さんは現役当時も、患者さんの早期治癒を願い、栄養士の立場から精一杯支えてきたのだろうと私は推察した。

大川さんが、今日初めて皆の前で声を出した。

「私たちは、バランスの良い栄養の摂り方を学んで来ましたが、加藤さんのお話から、高齢者にとって運動もとても大切なことだと分かりました。高齢者の健康には、きっと車の両輪のようなものなのでしょう。

どうでしょうか?『なのはな体操』は次回のパソコン教室までに私が覚えてきますので、パソコン勉強会や『なのはな会』を始める前に、皆でやりませんか?腰が痛いとか膝が痛いとかの人は、座ってでも良いと思います。

それから、屋外での光を浴びた運動は骨を丈夫にする効果があるとのことですので、パソコン勉強会の時もなのはな会の時も、勉強会が終わってから、15~30分くらい歩きませんか?近くには公園や神社がありますので、時々場所を変えながらだと楽しいと思います」

私たちの仲間は、健康に対して貪欲だ。誰一人反対するものもなく、次回から行うことになった。

私も大川さんも常識をわきまえている。どんなに親しい間柄であろうと、会の雰囲気を壊してはならないことを知っている。

 

第28章 「なのはな体操」断念

前回のなのはな会で、「なのはな体操」をパソコン勉強会となのはな会の始まる前に行うことが決まった。また、それぞれの勉強会の終了後に15分から30分程度を近くの神社や川の土手などを歩くことも決まった。

ただ会員の中には腰痛やひざ痛の人もいるので、市の生活支援室に相談し車いすを借りることにした。例えその日は歩けなくとも、自然の風や日光に当たるだけでも気分が良いし、仲間に車いすを押してもらうことでより絆が深まる。

ふいに私の電話が鳴った。大川さんからであった。来週のパソコン教室までに「なのはな体操」を覚えなければならないので、ユーチューブを見ながら一緒に覚えて欲しいという。私は、昔、小学生の頃運動会ではいつも1位か2位だった。またソフトボールの対外試合では代表選手にもなったものだ。まだ運動神経は衰えてはいないと自負をしている。しかし、大川さんと二人で体操を覚えるのは少し恥ずかしい気がした。

私は了解の返事をし、電話を切ろうとした瞬間思い付いた。

「息子さんの写真を何枚か私に見せて貰えませんか?」

その日も夕方6時30分頃玄関のチャイムが鳴った。玄関を開けると、大きな袋を下げて立っていた。夕飯のおかずを作って来てくれたらしい。

「今日は、春の献立集第3週から『揚げ豆腐の千草あんかけ』と『たまねぎ和風サラダ』を作ってみました。味に自信はありませんが、一緒に食べてもらえたらと思って」

私は味噌汁を手早く作った。ワカメをたっぷりの水で浸し、大根を短冊切りにし、鍋に水を入れ沸騰したら大根と水気を取ったワカメを入れた。ひと煮立ちしたら顆粒和風だしを加え、弱火にしてから味噌を入れ椀に盛り付け完成。

美味しい、美味しいと言いながら私は食べた。もう殆ど食べ終えようとする頃、箸を持つ手を休めて大川さんに声を掛けた。

「大川さん、この前のなのはな会の時、『なのはな体操は私が覚えて皆さんに教えます』って、ずいぶん積極的でしたね」

大川さんは、今日もニコニコしている。別々によそった「揚げ豆腐の千草あんかけ」と「たまねぎ和風サラダ」は、二人の皿ともほぼ綺麗になった。私が作った味噌汁も、大川さんは味が良いと言って椀を空にした。

「だって、自慢する訳じゃないですけど、会の中では私が一番若いし、誰か他の人にお願いする訳にはいかないと思って」

確かに、「なのはな体操」を覚えて、会の皆に教えられそうな人は思い付かなかった。私でさえもその役は、遠慮したい。

「ところで、息子さんの写真、持って来て貰えました?」

私は一番重要な話しを切り出した。大川さんは横に置いたバックの中から、小さなアルバムを取り出した。アルバムには、大川さんと二人で遊園地の乗り物の前で撮ったものから、小学生・中学生・高校生・大学生とそれぞれの年代ごとの写真が数枚ずつ写っていた。わざわざ写真を選んでくれたのが私には分かった。最後に撮られた写真は、30歳頃だろうか?いかにも繊細で賢そうな風貌であった。

「息子の名前は陽一と言います。小学校5年の時の通信簿に、担任の先生が『陽一君の将来が楽しみですね』って書いてくれました。陽一は成績が良いだけじゃなく、とても正義感の強い子どもでした。

私は嬉しくて涙を流したのを、昨日のことのように覚えています。ですが、今では家に閉じこもったままで・・・」

私には励ます言葉がなかった。だが、今の私は大川さんと辛さを共有している。

「行政機関の支援やNPOなどの支援により立ち直り、社会人として復帰している人もたくさんいるようです。そんなに落ち込まなくても大丈夫ですよ。大川さんが、あまり悲しそうな顔をすると、却って息子さんを追いつめてしまうような気がします。

焦らずに、信じて、待ちましょう。そして、立ち直りのキッカケを捜すことに専念しましょう。私も、いくつかのNPOを調べています。陽一君の写真を見せてもらって確信しました。きっと、いや必ず陽一君は立ち直ります。大丈夫ですよ!」

大川さんは私の言葉に気を取り戻したのか、僅かに微笑んだ。今日は、涙を流さず私を見つめた。

「大川さん、コーヒーを1杯飲んで小休止してから、さっそく『なのはな体操』のユーチューブを見てみましょう。今日は、初めてですから全体を何度か見て、いきなり高齢者がこの体操をしても大丈夫か、あるいは気を付ける必要があるか、その辺を重点に見てみましょう。今日は土曜日ですからパソコン教室まで、あと4日あります。実技は明日からにしませんか?3日あれば何とか形になるのではと思います」

コーヒーを少し急いで飲んだ私は、パソコンをテーブルに移して準備した。ユーチューブの「なのはな体操」をクリックするとテンポの良いドラムの音が聞こえて来た。途中まで見た大川さんが言った。

「この体操はテンポが速すぎて、それに動きが大きく高齢者には少し困難ですね。残念ですが、無理のようです」

私はいったんユーチューブを止め、ネット画面に戻した。「なのはな体操 高齢者」で検索してみると高齢者向けのビデオもあるようだったが、販売はしておらず手に入れることは困難と思われた。

「なのはな体操という名前は、私たちの会にピッタリだと思いましたが、このテンポと動きは若い人ならいざ知らず、私たちにはやはり無理ですね。昔から慣れ親しんだ『NHKのラジオ体操』にするしかありませんね。これなら練習なしでも出来ますし」

私が残念そうに言うと、大川さんも頷いた。

帰る間際、大川さんは「いつもありがとう!」と言って、私の背中に両手を回した。

 

第29章 初めてのラジオ体操と歩く会

パソコン教室の日がやってきた。私は家にあったCDラジオカセットコーダーを持参した。その中には、NHKのラジオ体操のテープが入っている。全員が揃ったとき、大川さんが立ち上がって発言した。

「皆さん、私は先日の『なのはな会』のとき、『なのはな体操』を今日から皆さんと一緒にやりましょうと言いました。ですが、実際にその映像を見てみましたら、テンポが速く動きも大きくて、私たちには少し無理ではないかと思われました。

高齢者用に合わせたスローテンポのビデオもあるらしいのですが、販売はしていないようですので、残念ですが諦めることにいたしました。ですので、すみませんがNHKのラジオ体操に切り替えることにしました。皆さん、しばらく振りでしょうから無理をしないで、私の真似をしてみてください。膝や腰が痛い人は座ったままで、少しでもいいので体を動かしてみてください」

大川さんの今日の姿はジャージ姿である。会の皆も体操があることを知っていたので、比較的動きやすい姿に着替えて来たようだ。パソコンの置いてある机に触れないように会の仲間を移動させてから、大川さんは私にカセットのボタンを押すように合図した。座ったままの人も何人かいた。

大川さんは、会の皆の前に立っているので、左右の動きが逆になるが、やはり賢い人だ。家で練習をしてきたようだ。会の皆は高齢の体での、そして久し振りのラジオ体操に戸惑いながら、ぎこちなく大川さんの動きを形だけ真似た。

ラジオ体操が終わると、口々にみんなが笑顔で疲れたと連発した。

今回のパソコン教室でラジオ体操があるからと、初めてこの教室に顔を出した加藤さんが「皆さん、ちょっとだけよろしいでしょうか?」と声をあげた。

「皆さん、どうでしたか?私もそうですが、若い時と違って大分体が硬くなって来たのが分かったと思います。また筋肉の衰えも感じられたかと思います。

私がある大学のスポーツ医学の教授から伺ったのですが、人間の筋力の成長は年齢には関係ないとおっしゃっていました。ということは、私たちも、体操や歩くことを日常的に行えば、まだまだ私たちは若い頃に近づくことができるということだと思います」

加藤さんは、健康に対する知識が豊富だ。私たちを、健康な体作りに導こうと努力してくれている。その気持ちに誰もが感謝している。

加藤さんの講話が終わると、大川さんが全員に向かって声をかけた。

「皆さん、今日はここから歩いて20分位で行ける『赤城神社』に行くことにします。車いすはお二人の方から頼まれておりましたので、用意してあります。私と小松さんとで押させていただきます。途中、喉が渇かなくとも水分を摂ってください。神社にはトイレがありますので、心配しないでこまめに水分を摂ってください」

事前に私と大川さんでこの行程を歩いてみた時は15分もかからなかったが、神社に到着したときは30分も経っていた。会の皆は何人かのグループに分かれ、それぞれ楽しそうに会話が弾んでいた。私が車いすを押させて貰ったKさんはまだ60代だが、少し前に植木の剪定中に転んで腰を痛めていた。

「小松さん、押して貰ってすみませんでした。車いすでも外は気分が良いものですね。皆さん、とっても良い人ばかりで、パソコンは覚えられるし、料理も勉強できて、本当にこの会に入って良かったと思っていますよ」

Kさんは晴れ晴れとした顔で言った。大分頭髪が薄くなったが、会の活動の中では熱心な一人だ。

大川さんは額にうっすら浮かべた汗をタオルで拭いながら、車いすの女性に話しかけている。二人だけの時と違って、悩みを抱えた女性とは思えない。

頬が紅潮していて、とても愛らしかった。

 

第30章 有償ボランティア

初めてのラジオ体操も歩く会も好評だった。次回が楽しみだと何人かが言った。ある人は明日からさっそく朝のラジオ体操を始めると、大きな声で宣言した。

それから何日か経ったある日、私はネットで「引きこもり支援」の情報を集めていた。いつものタグではなく、別なタグに変えて調べてみることにした。

「引きこもり支援 ボランティア」で検索してみた。すると、次のような名称のボランティアがヒットした。偶然にも私達の住む県内にその団体は存在した。「有償ボランティア 引きこもり真心の会」だった。ボランティアが有償とは、どういうことか?ボランティアなら、交通費もその他すべて無償が当たり前の筈だ。

私も昔、ボランティアをしたことがある。随分遠いところだった。行く前に、スーパーで食料品や飲み物を買い求め、一人用のテントを積み込んで出かけた。妻は、気を付けてと心配そうだった。民家の家の中や庭の泥かきをし、土のう袋に入れて集積場に運んだ。2泊3日で、月を挟み2度行った。無償は当たり前のことだ。

それが有償のボランティアだという。私は腹を立てながら、そのホームページを開いた。ボランティアを謳い、弱者に寄り添うどころか食い物にする団体かと疑った。

会の代表の方は、私よりも高齢だった。代表者は挨拶の中で、「有償ボランティア 引きこもり真心の会」設立のエピソードを語っていた。以下のような長い文面だった。

~ 私は、若い時に親友を事故で無くしました。眠れない夜が続いたある日の仕事中でした。急に心臓が激しく脈打ち、立っていられなくなりました。机に突っ伏して、今にも死ぬかという恐怖におののきました。その時私は観念しました。

「私は今まで、少なくとも正直に生きて来ました。私の命は、神様の意思に従います。ここで死ぬことになっても結構です」

誰かがコップに水を汲んでくれましたが、真っ青な顔をした私は、両腕の中に顔をうずめておりました。暫らくすると落ち着きました。上司の指示で病院に行くと、医師は血圧がだいぶ高いと言って、私の心を和らげる薬を処方してくれました。

しかし、その日から私は電車や飛行機、聴衆が静まり返る講演会などが恐ろしくなりました。叫びだしたくなるような、そこから逃げ出したしたくなるような衝動に襲われ、そして、あの時の悪夢が甦り、私の心臓は狂ったように打ち続けるのです。今まで、仕事を普通にしていても、或いは仲間と会話を楽しんでいても、不意にその悪夢が私を襲うのです。私は怯えて、うつ病のような症状に陥りました。、それでも、私は悪夢と必死に戦いました。

私はこの症状を誰にも相談できずにいました。両親や兄弟、そして妻にも話せませんでした。上司は、私の精神が病んでいると思ったようです。私が近くにいるのを知っていて「あの人は少し頭がおかしい」と言った先輩もおりました。屈辱でしたが、私は黙って耐えました。転勤した職場でも同じような状況でした。

この状態は年を重ねるごとに回数は減りましたが、その恐怖心は定年まで続きました。定年で仕事の緊張や人間関係の煩わしさから解放されると、やっと私もこの恐怖から解き放たれました。

私には長く辛い年月でした。多分パニック障害だったと思われます。この辛さは、当人でないとわからないと思います。私はそれでも定年まで勤めあげ、子供も大学まで行かせることができました。しかし、この世間には私よりも辛い人たちがもっともっといるに違いないと思い、残りの人生を、そういう人達のために捧げようと決めました。何の見返りも求めず、骨身を欲しまずにやり遂げよう、そう決心しました。

そう考えて辿り着いたのが「引きこもり」問題です。私は、引きこもり関係の本を買い込み、読み漁りました。また、各地の講演会や研修会にも積極的に参加させて貰いました。ネットで調べてみると他にも各種の勉強の仕方や教材などもあるようでしたが、その費用対効果も考え、敢えて私の勉強法を貫きました。

結論を申し上げますと、『関わる方の真心が本物であれば、引きこもりの方は必ず心のドアを開いてくれる』この一言に尽きると思います。

この私の生き方に共鳴してくれた数人の方と「有償ボランティア 引きこもり真心の会」を立ち上げました。自分の孫が引きこもりの方も手伝ってくれています。引きこもりの方に寄り添う気持ちは、全員同じです。

今の状況から脱したいと考えているご本人さま、そしてご家族の皆さま、私たちは守秘義務を守り、誠心誠意尽くします。ぜひご連絡をお待ち申し上げております。

最後にもう一言だけ付け加えさせて頂きます。私たちの会は、相談者さまのご自宅を訪問させて頂くことを基本とさせて頂いております。その有償の内容ですが、1回のご訪問につき交通費(往復代1キロ25円)と飲料水代の150円を合わせた金額を翌月にお振込みにてお支払いいただきます。例えばご相談者さまのご自宅まで片道20キロの場合ですと、総額1,150円です。なぜ有償なのか、それは相談される方の心を軽くするためです。有償ですから、当然遠慮は要りません。

もし私たちの会にご賛同いただけましたら、どうぞご遠慮なく連絡して下さい。電話でもメールでも結構です。 ~

随分と長い挨拶文だった。私はこの会が弱者を食い物にする団体かと疑ってかかったが、どうやら見当違いのようであった。とても良心的な会に思えた。躊躇せずに電話をかけてみると、受話器の向こう側には、会の代表者というホームページで見た名前の人が出た。穏やかな話し方に信頼のできる人柄が感じられた。

私は、色々なことを代表者の方に聞いたが、丁寧に応えてくれた。この会の所在地は私たちの住む地域から片道30キロメートル位の所にあり、訪問1回あたり1,650円位の料金のようだ。だが、入会金も相談料もない。まして時間の制約もないという。ネットで見るNPO法人などと比べると信じられない内容である。しかし、それだけではなかった。このひきこもり問題で一番重要なことを、会長は見抜いていた。

「どうか一度私たちの会にいらっしゃって頂けませんか?直接お会いして、ご相談させた頂きたいものですから。もちろん相談料は必要ありません」

代表者の声に「近いうちにご連絡をさせて頂きます」と言って、私は携帯を切った。その後、すぐ大川さんに電話した。大川さんは私の言うことを聞き終えると言葉を発した。

「小松さん、いつも有難うございます。是非、そのボランティアの代表の方にお会いしたいと思いますが、私一人では不安なので小松さんも一緒に行って戴けませんか?」

もちろん私は承諾した。次の日私は「有償ボランティア 引きこもり真心の会」の代表者の方に電話をした。今週の金曜日の夕方6時に私と大川さんは、ボランティアの会の事務所を訪問することになった。

大川さんに伝えると、電話の向こうですすり泣く声がした。

 

第31章 午前3時の男

金曜日の午後4時半ごろ私は家を出た。それから大川さんの家に迎えに行った。大川さんは、ワンピースにカ-ディガンを羽織っていた。とても魅力的だったが、私はそれを言葉にはしなかった。今日は、浮かれてはいられない。

国道を走り、高速道路のインターチェンジの出口近くになってから急に渋滞し始めた。予め覚悟をして早めに出て来たので、慌てることはなかった。カーブを左に曲がり、演歌のタイトルにでもなりそうな名前の川を渡った。

渋滞から解放され少し走ると「道の駅」があった。目的のボランティアの事務所まではもう数キロの予定であり、腕時計は午後5時30分を指していた。

「大川さん、10分位休んでいきませんか?」

私が声を掛けると、大川さんは少し緊張した表情を笑顔に変えて頷いた。大川さんが「トイレに行って来ます」と言って歩き出したので、私は自動販売機に向った。缶入りブラックコーヒーを二つ買った。

「私、本当はとても心配なんです。果たしてこのボランティアの方にお願いして、陽一が社会に復帰できるようになるのでしょうか?小松さんが一生懸命探してくれたのに、こんなことを言ってすみません」

トイレから戻った大川さんはコーヒーを一口飲み、私の顔を見ながら心配そうに言った。

「大川さんの心配は私にも分かります。もしかしたら無駄な時間になるかも知れませんし、1回の訪問料が1,600円程度でも月4回で年間7~8万円位になります。決して馬鹿に出来る金額ではありません。

でも、悩んでいても解決にはなりません。今日、このボランティアの会長と会ったからといって、お願いすると決めた訳ではありません。充分に信頼できるか、それを見極めてから結論は出しましょう!

焦っても良い結果にはならないし、だからと言って臆病になりすぎても前には進めません。今日は、遠慮しないでとことん納得するまで質問して、それから家に帰って今後のことを相談しましょう」

私の言葉に大川さんは、安心したようだった。車に乗り込み再び走り出した。あるラーメン屋さんを左に曲がった少し先に、目的の平屋の建物があった。リフォームしたような古い建物の玄関には、「有償ボランティア 引きこもり真心の会」という看板が建っていた。

「失礼いたします」

ドアを開けながら、私は少し大きな声で言った。すると白髪の混じった女性が姿を現した。

「小松さんでいらっしゃいますか?お待ち申しておりました。主人は今電話中なんです。さぁ~ どうぞこちらへ。他のボランティアの方は帰りましたので、今いるのは主人と私だけです。」

この女性は会長の奥さんのようであった。私たちは、出されたスリッパに履き替え、女性の案内する部屋に入った。8畳ほどの狭い部屋で、4人掛けのソファーが置いてあり、スチール製の机が幾つか並んでいた。隅の方にパソコンとプリンターが置いてある。少しすると先程の女性がお茶を運んできた。

「すみません、お待たせして。主人が話しているのは、20代の引きこもりの方のお母さんからのご相談の電話なのです。こうしたご相談はいつも長くなり、時には1時間を超えることも珍しくありません。もう少しお待ちください」

約束の6時は過ぎていた。このままいつまで待たされるのかと心配になった頃ドアが開いた。

「いや~ 大変お待たせいたしました。申し訳ありません」

会長と思しき高齢の男性が入ってきた。私と大川さんは立ち上がってお辞儀をした。男性は、懐から名刺を出して二人に渡した。

「今日は遠い所をおいで下さいましてありがとうございます。私たちがお役に立つことが出来ましたら嬉しいのですが」

名刺には「会長 鈴木義典」と書いてあった。会長は、ホームページで見た設立のエピソードを話し出した。私と大川さんは静かに聞いていた。不幸な出来事から生じた辛い社会人生活を乗り越え、残りの人生を弱者のために捧げたいという熱意は確かに伝わった。

それから会長は、失礼ですがと言いながら私と大川さんの関係を聞いた。私は、趣味の会の仲間で役員同士ですと答え、更に、電話で話した通りお世話になりたいのはこの大川さんの一人息子の陽一君のことですと続けた。

会長は二人の関係には意に介す様子もなく、机の本棚からノートを取り出した。陽一君の子供の頃の様子や、引きこもりになった前後のこと、それから食事の時間などを大川さんから聞いてメモした。お付き合いした女性がいたかどうかなど、私には何故必要なのか分からない質問もあった。

しばらくして「有償ボランティア 引きこもり真心の会」の会長鈴木義典氏はいきなり言った。

「来週の土曜日の午前3時に伺わせて頂きます!」

私と大川さんは顔を見合わせて驚いた。会長は続けて話した。

「引きこもりの方は、昼と夜が逆転されている方がけっこう多いようです。残念ですが、陽一さんもそのおひとりだと思われます。寝ておられる時間に訪問致しましても、そして声を掛けさせて頂いても、ご返事は期待できません。ですから、起きておられる午前3時ごろに伺わせて頂くのです」

私は最近読んだ新聞記事を思い出した。それは、幼児虐待の通報を受けた児童相談所の職員が、日中訪問したが留守だったので帰ってしまった。それ以降訪問する事も無かったために、幼児は虐待死した。児童相談所長は、私たちに落ち度はなかったと釈明をした。幼児の両親が昼いなかったのなら、夜でも早朝でもなぜ訪問しなったのかと、その記事を読んで私は憤ったのを思い出したのである。

この会長のいうことは正論ではあったが、そこまで弱者に思いを寄せられることが私には信じられなかった。会長はなぜ訪問日を土曜日に設定したのかも教えてくれた。それによると、この会は週休2日制が基本であるため、土曜日の午前3時ごろ訪問しても、この日は休みなので昼に休息が取れるからだと言う。

こんなことがあり得るのかと、私はこの会長が輝いて見えてきた。この世には神も仏もあるものかと、妻が亡くなった頃、私は生きて行くことが辛くなった。そんな私を救ってくれたのが大川さんである。私にとって大川さんは神である。しかし、私の目の前にもう一人の神がいる。そんな気がした。大川さんはもう瞼を濡らし始めている。

 

第32章 初めての訪問

土曜日の午前2時に起きて、大川さんは「有償ボランティア 引きこもり真心の会」の会長鈴木義典氏の訪問を待った。お湯を沸かし、お茶菓子の用意をして待った。

果たして2時50分頃に車のエンジンの音がした。ブレーキランプの赤い色がカーテン越しに見えた。門扉は約束通り開けておいた。玄関のドアを軽くノックする音が聞こえたので、大川さんは静かに開けた。鈴木会長は、グレーのジャケット姿でネクタイはしていなかった。

「こんな夜中にお出でいただきまして、本当にありがとうございます。どうぞ、お入りください」

大川さんは囁くように言い、鈴木会長を居間に案内した。座卓に座布団を敷き、鈴木会長に座って頂いた。先ずお茶を飲んで頂こうと、急須にポットからお湯を注ごうとすると、鈴木会長も小さい声で言った。

「先日申し上げましたように、私どもは飲み物代も頂くことになっております。ですので、何も用意して頂く必要はありません」

確かに、飲料水代として150円の費用が掛かると聞いていたのを思い出した。大川さんがポットから手を放すと、カバンからペットボトルのお茶取り出し、鈴木会長は一口飲んだ。

「本日は、初日ですので陽一さんに挨拶をさせて頂き、失礼させて頂きます」

この時間に遠い道のりを運転して来て、本日は挨拶のみで帰るという。大川さんは、期待を裏切られたようで、軽い失望を感じた。ボランティアとは言いながら、1,650円の費用が発生するのである。大川さんの様子に鈴木会長は優しく言った。

「大川さん、失礼ですが、初日から何の信頼関係もない初対面の老人が何かを伝えようとしても、息子さんが素直に聞き入れて下さるとお思いですか?今日は、私の存在を知って頂くこと、そしてまた来週の土曜日にお伺いすることを意識して頂くことだけで充分なのです」

誰でも初対面の人には警戒するものだ。会長は、充分な時間を使い、陽一の心を少しずつ開いていくつもりなのだ、そういうことなのかと大川さんは納得した。大川さんは、2階の陽一の部屋に案内した。ドアの隅から僅かに灯りが漏れていた。やはり、陽一は起きている。

数日前に、用意した食事を陽一に渡す時、大川さんは陽一に話した。

「今度、ボランティアの鈴木さんという方が、お前の力になりたいと、来てくれることになったよ。土曜日にいらっしゃると言っていたけど、その時は鈴木さんの話しを聞いて貰いたいんだけど。ドアは開けないで良いから」

その時、陽一は特に変わった表情は見せなかった。関心があるのか、迷惑なのか大川さんには分からなかった。

鈴木会長は、閉められた陽一の部屋の前で正座して言った。

「こんばんは。私は、ボランティアをしています鈴木と申します。私は、陽一さんのお力になれたら嬉しいと思って、大川さんの家に来させて頂きました。もし、ご迷惑と思った時は遠慮せずに言って下さい。その時は、すぐ帰ります。

今日はこれで失礼させて頂きますが、また来週の土曜日のこの時間にお邪魔させて頂きます。どうか今後ともよろしくお願いいたします。それでは、失礼させて頂きます。ありがとうございました」

鈴木会長が話した時間は1分間くらいだったかと思う。大川さんは初めての経験に戸惑った。これから陽一は変わってくれるのだろうか?このまま鈴木さんにお願いすることが良いのだろうか、不安だった。

二人は階段を下りて居間に戻った。鈴木会長は再びペットボトルを取り出して、一口飲んでから大川さんに向って言った。

「大丈夫ですよ。陽一さんは私の話をちゃんと聞いてくれましたよ。毛嫌いしておられたとしたら、何らかの拒否のアクションがあった筈です。少なくとも、今日の陽一さんへのアプローチは成功だったと言えると思います。

ひとつお願いがあります。次回の訪問の時は、お母さまは2階に上がらず、ここで待っていて欲しいのですが」

大川さんは「分かりました」と返事した。頷いた鈴木会長は「また来週のこの時間に訪問させて頂きます」と言いながら、カバンから今回の費用の請求者を取り出した。

「今月分をまとめて来月の25日までにお振込みをお願いいたします。それでは、有り難うございました」と言って帰って行った。

時計は、午前3時20分を指している。確かに鈴木会長の理屈は的を射ている。だが、余りに期待し過ぎたせいだろうか、大川さんは拍子抜けしてしまった。

 

第33章 それからの1年(その1)

会の活動としての「なのはな会」「なのはな歩く会」はこの1年の間に大きく変わった。個人的な事を言えば、「有償ボランティア 引きこもり真心の会」の会長鈴木義典氏の力は想像以上で、大川さんの一人息子である陽一君も大きな変化を見せた。

何から話したら良いか悩んでしまう。順番に記していくことにする。

先ず、「なのはな会」だ。市の広報にこのニュースが載ると忽ち、申込者が殺到した。やはり独居高齢者が多かった。

この公民館の調理室の最大利用者数は約15名くらいだ。とても対処し切れない。市の担当者と協議し、私たちの公民館以外の公共施設を利用した「なのはな会」を市内2ヶ所で新たに開催することにした。その立ち上げの2ヶ月間は、大川さんと加藤さんが支援をするということになった。そのため開催日は、大川さんと加藤さんの都合がつく日程で調整が行われた。また、二人の諸々の負担を考えて、市が手当を支給してくれることにもなった。

「なのはな会」は、『高齢者のための季節の献立集』を教科書とする高齢者の調理実習の勉強会だ。この「なのはな会」が始まる時と終わった後には、ある約束事がある。始まる前には「NHKのラジオ体操」をすること。それから片付け等が終了した後、15~30分位近くを歩くことである。その時の都合で多少歩く距離が長くなっても、会員の了承があれば問題はない。

ラジオ体操も歩くことも、無理な強制はしない。腰痛などを抱えている人は座っての体操でも構わないし、歩くことが辛い人には足腰の丈夫な人が車いすを押すことになっている。

私たちの「なのはな会」が始まって2ヶ月が過ぎた頃だろうか。誰からとなく、月に一度くらい遠出の歩く会をしてみたいという話が出た。要約すると、車に分乗し1時間程度で行ける史跡や陶芸の里あるいは「道の駅」などで、予め探しておいた安全な道を1時間くらい歩いた後に、それらを見学するというものだ。これなら、歩いた後に楽しみがある。

その案はあっという間に決まり、第1回目の企画は「なのはな会」会計係の大野さんが引き受けてくれることになった。ある日のパソコン勉強会の終了時に、大野さんから企画がまとまったとのことで皆の前で発表があった。

「え~ 皆さん、第1回目の企画ですが、笠間稲荷神社に決定しました。笠間市には、誰もが気軽に歩ける、安全に配慮された魅力ある楽しいコースがたくさんあります。今回は『いばらきヘルスロード』にも指定されたコースの中から『笠間のお稲荷さんコース』に決めさせて頂きました。

だいたい1時間を少し超えるくらいの行程と思われます。歩いた後、笠間稲荷神社を参拝して、それから焼き物のお店を見て回る予定です。自画自賛ですが、とても楽しい企画だと私自身、いまからワクワクしております。

ところで一つ相談があります。この歩く会にも名称が必要だと思います。料理の『なのはな会』と連動させまして『なのはな歩く会』と私が勝手に考えてみましたが、いかがでしょうか?」

この会は、前向きな案には誰一人反対するものがない。すぐ決まる。だが、決めなければならないことがまだあった。私は発言した。

「『なのはな歩く会』にも、責任者即ち会長が必要だと思われます。私は、ぜひ大野さんにお願いしたいと考えます。皆さんいかがでしょうか?」

皆、一斉に拍手をした。「なのはな歩く会」は、翌月からさっそく開始された。このコースは、笠間駅を起点にしているが、私たちは笠間稲荷神社を起点にすることにした。戻ってからゆっくり参拝したいことと、駐車場も広く分乗する3台の車の駐車に不安がなかったからだ。

焼き物のお店では、皆お土産を買っていた。私も息子夫婦のために夫婦茶碗を買った。それから、これは内緒だけれど、大川さん用の茶碗とそれに湯呑茶碗も買った。大川さんは、車いすの女性と別な店を見て回っていた。

後で知ったことだが、大川さんも夫婦茶碗を買っていた。私たちは相性が良いと、そのことを知った時は嬉しさが込み上げた。また私が買った茶碗と湯呑に、まるで子どものように大川さんは燥いだ。

そんなこんなでとても楽しい「なのはな歩く会」だった。会員の中にはあるフォトクラブに所属する人がいて、市の広報担当者宛てにこの時の画像と簡単な説明書きを送った。すると、またもや市報に記載された。

市の担当者から、「なのはな歩く会」に入りたい等の問い合わせが殺到していると大野さんに連絡が入った。その大野さんから私に相談の電話が入った。私は、市の担当者に問い合せを頂いた方の連絡先を控えておいて貰うこと、そして次回のパソコン勉強会の時に皆で相談することを提案した。

次回は、大川さんのひとり息子陽一君が大きく変わったことを、皆さんにご報告したいと思う。

 

第34章 それからの1年(その2)

陽一君の引きこもりについての、その後をお話ししたいと思う。

「有償ボランティア 引きこもり真心の会」の会長鈴木義典氏の力で、陽一君が変わったのだ。半年間は、ほぼ変化はなかった。それでも鈴木会長は毎週土曜日の午前3時にやって来た。大川さんを1階に置いたまま、会長は一人で2階に上がった。階段の下で、会長の話すことばを大川さんは耳を澄ませて聞いていた。

「陽一君を必要としている人がいる。そしてその人たちが、陽一君に救われるのを待っている。今の陽一君には辛い毎日だろうが、今度はその体験を同じように苦しんでいる人のために役立たせてみないか?陽一君の温かい手を、多くの待っている人がいる」

そういう内容のことを、鈴木会長は訪問の度に少しずつ時間を延ばしながら話した。いつも反応はなかった。

半年も過ぎたころ、数分でも良いので昼の光を浴びてみないかと会長は言った。ドアはいつものように閉じられていた。

会長は勝手に○○日の○○時に○○公園で待っていると話しながら、忘れないようにと小さなメモ書きをドアの前に置いた。

会長が勝手に決めた約束の時間に陽一君は現れなかった。会長は、もしかしたらとの微かの希望を捨て切れずに、約束の10時から夕方5時までその場を離れなかった。昼食も忘れて、辺りを見渡し続けた。

やはり来なかった。しかし、会長は諦めなかった。再度、会長は勝手にセッティングをし、陽一君に伝えて、またいつもの公園で待った。初回と同じように夕方まで待ったが、やはり来なかった。

会長は、夕方5時過ぎまで待ったことを陽一君に伝えたが、決して責めるような話し方ではなく、今度は期待しているというニュアンスだった。

会長はそういうことを幾度となく繰り返したが、決して諦めることはなかった。自分は真心を尽くすが、相手に過剰な期待は持たない。それが「有償ボランティア 引きこもり真心の会」のポリシーだったからだ。

ある日、公園の中で辺りを見渡しながら長時間を過ごす老人を、幼い子を連れた母親のグループが訝しげに見つめた。最近の日本は、静かな公園などでも事件は起きる。会長は、心に一点の曇りもなかったが、柔軟体操をする振りをして繕った。

それでも奇跡を信じて、今回も夕方まで待った。もう日も暮れかかるという頃、会長は今度もダメかと諦めかけた。その時である。落葉樹の木陰から歩いて来る男の姿が目に入った。中背の色の白い30代前半と思われる男だ。その男が、その年齢には相応しくない鈍い動き方で歩いて来る。

近づいて来る男に、会長は興奮して「陽一君?」と声を掛けた。男は、黙って頷いた。

「少し、歩こうか?」

会長はそう言うと、先になってゆっくりと歩き出した。やっと陽一君が外に出てくれた、そう思うと会長は頬を伝う涙を禁じ得なかった。ハンカチで涙を拭いながら、ただ歩いた。5分位歩いただろうか。陽一君は、それでも歩いて付いて来た。

「陽一君、今日はありがとう!また、一緒に散歩してくれないか?」

二人は公園で別れた。

2週間後にまた、会長と陽一君は公園を散歩した。今度は、まだ太陽が西の空に高く、充分に陽の光の恩恵にあずかれる時間だ。会長は、若き日に大きな夢と希望に燃えながら、不幸な出来事からパニック障害に落ち入り、辛い人生になったことを話した。それでも、幾人かの心優しい人たちがいて、その人たちのお蔭で定年まで勤め上げることが出来たと、途中から涙を流しながら話した。

それから会長と陽一君は、10分程度の短い時間ではあったが、公園で何度も会った。青白くさえ見えた陽一君の頬は、いつか歩くことや陽を浴びたことによって、赤みを帯びてきた。また、無表情だった顔にも、時折り笑顔が見られるようになった。笑うと人懐こい性格が垣間みえた。

「陽一君、私たちの会に入ってくれないか?陽一君と同じような苦しみを持った人たちを、今度は助ける側に回って欲しいんだ。陽一君を待っている人が必ずいる。陽一君でなければ、救えない人が大勢いる。陽一君と会える日を待っている人がいっぱいいる」

会長は陽一君に迎合したのではない。相手の辛さを知らない人が、上辺だけの言葉で話しかけても誰も信じない。

「こんな俺に出来るかな?」

と一言、陽一君が初めて言葉を発した。その前向きな言葉に、「出来るよ!陽一君ならできるよ!」と会長は涙ぐみながら言った。陽一君が、今の状況から脱したいと考えている。ああ、大丈夫だ。立ち直ってくれる!会長は飛び上がらんばかりに喜んだ。

会長は、「好きな時間に来てくれればいい。来てくれるだけでいい」と言った。

陽一君は、初めのうちこそ眠そうな、そして虚ろな表情で、会長の事務所に姿を見せていた。だが、会長夫婦や他のスタッフの応援に、陽一君は次第に明るくなり、そして閉じた心を大きく広げ始めた。

大川さんも、陽一君の変化を感じていたという。鈴木会長の訪問から半年を過ぎたころから確かにその兆候が見られたらしい。私の家に夕食を届けに来て、笠間焼の夫婦茶碗で一緒に食べる時の大川さんは、明るい希望に、以前の涙を流したような暗さは消えていた。表情の明るい大川さんは、ますます魅力的だ。

今では、「有償ボランティア 引きこもり真心の会」のメンバーの一人として加わり、まだまだ頼りない陽一君ではあったが、大川さんと私にとってこれ以上の喜びはなかった。

私たちの鈴木会長を見る目は間違えていなかった。陽一君のその心の成長を、会長はまるで自分の息子のことのように喜んでくれる。会長は私たちにとって、やはり神だった。

 

第35章 現在の私

私は、もうすぐやって来る終戦記念日の2日後に69歳の誕生日を迎える。この「独居老人のひとり言」も今回で終えたいと思う。

小学生の頃の思い出から書き始め、定年前後の妻の死、その後の虚しく辛い日々から大川さんにより救われた辺りまでを丹念に正直に語ったつもりである。

来年の夏は古希を迎える。もう人間としての諸々の欲望や羨望などの「我」から解放されて、ただ孫の健やかな成長を願い、いつか訪れる寿命を素直に受け入れられるような生き方をしたいと願っている。

私が満65歳になってから受け取っている年金であるが、国民保健料や介護保険料それに住民税などを控除した支給金額は約30万円であり、ひと月当り15万円である。私は小さいながら持ち家なので、何とか生活はしていける。だが、賃貸の住宅に住む高齢者には厳しい金額だ。

今のまま健康で過ごせるなら、特に問題はない。たまに行く大川さんとのファミリーレストランでの至福の時間も許される。だが、私が癌や脳卒中などに罹患した場合、そしてその流れの中で介護施設などに入所した場合においては、私の年金額ではおそらく足りず、息子のための虎の子も放出せざるを得ないと危惧している。

この日本には、80歳を過ぎた高齢の身においても働かざるを得ない沢山の人々がいる。生きるため、社会の底辺の中で僅かな収入を得るため、必死に働いている多くの高齢者がいる。豊かだった日本は、いつ頃からか富む者と貧しい者とに二分され、多くの高齢者は後者となって明日を憂いている。

ここで甚だ勝手で申し訳ないと思うが、私の現在の思いについて述べさせて頂きたい。

私は幸せだ。私を必要としてくれる「パソコン勉強会」があり、「なのはな会」それに「なのはな歩く会」がある。一番の私の宝物は、大川さんである。私は、生きていることを楽しいと感じている。この現在が、未来永劫続くことを願っている。

その幸せを奪うリスクのあるものを排除するため、「なのはな会」や「なのはな歩く会」を会の仲間とともに、私も大川さんも積極的に行っている。この「なのはな会」も「なのはな歩く会」も多くの高齢者市民から共感を得、数ヵ所で実施されるようになり多くの仲間が加わった。この運動は、私たちの世代が引退してもきっと後世まで続くと信じている。

幸せな人生だったと改めて思う。妻の明子との幸せな結婚生活。そして今も続いている大川さんとの安らぎの日々は、私の人生の最後を飾ってくれるに相応しいと感涙にむせぶことも稀ではない。年に数度見られる孫の成長も大きな楽しみとなって、私を支えている。

ここで締めの文章にし、この「独居老人のひとり言」を終えようと考えたが、前回の「第34章 それからの1年(その2)」の続きを知りたいと願う方がおられることを想定し、少しお話しする。それからの1年(その3)としよう。

それからの1年(その3)

「有償ボランティア 引きこもり真心の会」の鈴木会長の真心と強い心に、氷のように固く閉ざした陽一の心も春の日差しに溶ける雪のように、少しずつではあったけれど昔の明るく知的な姿に戻ることができた。

鈴木会長の指導のもと、行政主催の「ひきこもり支援と対策」での講演者となり、陽一は自ら体験した辛く悲しい想いを語り、そこから這い上がれた経緯も涙と共に話した。聴衆の間から、すすり泣く声が響いた。

その後、「引きこもり」関連の多くのNPO法人から講師に招かれ、県内はもとより関東の全ての都県を会長と共に回った。陽一は、大きく成長した。家を空ける機会も増えた。

陽一君の変化に、大川さんと私は涙した。陽一君が東京の複数のNPO法人への連日の講演で家を空けた夕方、大川さんは「一人で寂しい」と私の家にやって来た。大川さんが来ることを知らなかった私は、『高齢者のための季節の献立集』秋の献立集1週5日目の献立を作ろうと考えていた。献立の内容は「秋鮭のホイル焼き」と「ほうれん草のお浸し」だった。

レシピを見ると鮭一切れで2人前だった。ちょうど良かったと思った。ただホイルで包むのは二人分だった。私は玉ねぎを薄切りにし、ニンジンを千切りにし、そのあとシメジをほぐした。傍で、大川さんは見ていた。嬉しそうだった。

多少大川さんからアドバイスは貰ったけれど、殆ど私の実力だと思う。今の私は料理が得意だ。大川さんは、私が油を引いたフライパンに蓋をして蒸し始めると、ほうれん草のお浸しを作り始めた。

蒸しあがったホイルを開いて、私は半分ずつ皿に分けた。ホイルが付いた方は大川さんにあげた。バターの香りがとても食欲をそそった。大川さんが「ほうれん草のお浸し」をよそってくれた。いつも感じることだけれど、大川さんと二人だけの食事は格別だった。

夕食が済むと私は籠の中から梨を取り出し、皮をむいた。大川さんは食器を片付けている。二人で食後の果物、つまり梨を食べながら私は言った。

「大川さん、最近の陽一君の活躍はすごいですね。昨日の全国版の新聞に、陽一君の講演の姿が載っていましたよ。記者は、すごく感動したと書いていました。それを読んで私は涙を止めることができませんでした」

ソファーの横のテレビ台の引き出しからその新聞を取り出し、記事の部分を広げながら大川さんに渡した。その記事を読み始めると大川さんは、また泣き出した。

この時もまだ、私は大川さんを姓で呼んでいた。名前では照れがあり呼べなかった。

いつだったか正確な時期は忘れたが、なのはな会が始まった頃、私は夕食の献立の作り方が分からず大川さんに相談した。大川さんは私の家に来てくれて教えてくれた。その時、偶然な出来事から私と大川さんは抱き合った。それから間もない日に私の方から大川さんを抱きしめ唇を合わせたが、「陽一が独り立ちできるまで私だけが幸せになることは許されない」と大川さんは決意した。

あれから1年後には陽一君は大きく変貌した。これ以上望みようがないと思えるほど、大きく成長した。大川さんは、私が渡した陽一君が書かれた記事を読み終えると、静かに言った。

「これでやっと陽一も独り立ち出来たようです。小松さん、ありがとうございました」

そう言うと、大川さんは少し離れた位置から私の横に座り直して、私の胸に顔をうずめた。大川さんの表情は晴れやかだった。私は大川さんを抱きしめた。

私は大川さんから体を外し、部屋の明かりを消した。カーテンの隙間から月の光が差し込んでは来たけれど、静寂のなかに聞こえるのは二人の息遣いだけだった。翌日から、私は初めて「美智子さん」と名を呼んだ。

 

≪ 結 び ≫

私は、また明日から、「パソコン勉強会」「なのはな会」「なのはな歩く会」に参加することで、私の人生の最後を更に輝きのあるものとすることが出来るだろう。

妻の明子と大川さん、そして会の仲間の方々、最後に「有償ボランティア 引きこもり真心の会」の会長に感謝することを、生きている限り私は忘れることはない。

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