小鳥

ブログ

創作の小部屋「独居老人のひとり言」最終回

2019年07月27日

 「独居老人のひとり言」最終回

ここつくばは晴れていますが、「ビュ~ ビュ~」といった感じで風が吹き荒れています。どうか台風の被害が出ないようにと祈っています。

「独居老人のひとり言」も今回が最終回です。朝8時頃から書き始め午後2時、今やっと終わりました。本来はアップする前に誤字・脱字・脈絡・整合性などを何度も確認をしないといけないのですが、いつものようにアップしてから再度読み返し、多少修正するかも知れません。時間を置くと、いろいろ気付くことがあります。プロなら、私のような書いて直ぐアップなどは絶対しないと思います。

最終回です。長い間ご覧頂き誠にありがとうございました。次回から、作詞教室に戻ります。     (画像は霞ヶ浦の帆引き船です)

  「独居老人のひとり言」最終回

第35章 現在の私

私は、もうすぐやって来る終戦記念日の2日後に69歳の誕生日を迎える。この「独居老人のひとり言」も今回で終えたいと思う。

小学生の頃の思い出から書き始め、定年前後の妻の死、その後の虚しく辛い日々から大川さんにより救われた辺りまでを丹念に正直に語ったつもりである。

来年の夏は古希を迎える。もう人間としての諸々の欲望や羨望などの「我」から解放されて、ただ孫の健やかな成長を願い、いつか訪れる寿命を素直に受け入れられるような生き方をしたいと願っている。

私が満65歳になってから受け取っている年金であるが、国民保健料や介護保険料それに住民税などを控除した支給金額は約30万円であり、ひと月当り15万円である。私は小さいながら持ち家なので、何とか生活はしていける。だが、賃貸の住宅に住む高齢者には厳しい金額だ。

今のまま健康で過ごせるなら、特に問題はない。たまに行く大川さんとのファミリーレストランでの至福の時間も許される。だが、私が癌や脳卒中などに罹患した場合、そしてその流れの中で介護施設などに入所した場合においては、私の年金額ではおそらく足りず、息子のための虎の子も放出せざるを得ないと危惧している。

この日本には、80歳を過ぎた高齢の身においても働かざるを得ない沢山の人々がいる。生きるため、社会の底辺の中で僅かな収入を得るため、必死に働いている多くの高齢者がいる。豊かだった日本は、いつ頃からか富む者と貧しい者とに二分され、多くの高齢者は後者となって明日を憂いている。

ここで甚だ勝手で申し訳ないと思うが、私の現在の思いについて述べさせて頂きたい。

私は幸せだ。私を必要としてくれる「パソコン勉強会」があり、「なのはな会」それに「なのはな歩く会」がある。一番の私の宝物は、大川さんである。私は、生きていることを楽しいと感じている。この現在が、未来永劫続くことを願っている。

その幸せを奪うリスクのあるものを排除するため、「なのはな会」や「なのはな歩く会」を会の仲間とともに、私も大川さんも積極的に行っている。この「なのはな会」も「なのはな歩く会」も多くの高齢者市民から共感を得、数ヵ所で実施されるようになり多くの仲間が加わった。この運動は、私たちの世代が引退してもきっと後世まで続くと信じている。

幸せな人生だったと改めて思う。妻の明子との幸せな結婚生活。そして今も続いている大川さんとの安らぎの日々は、私の人生の最後を飾ってくれるに相応しいと感涙にむせぶことも稀ではない。年に数度見られる孫の成長も大きな楽しみとなって、私を支えている。

ここで締めの文章にし、この「独居老人のひとり言」を終えようと考えたが、前回の「第34章 それからの1年(その2)」の続きを知りたいと願う方がおられることを想定し、少しお話しする。それからの1年(その3)としよう。

それからの1年(その3)

「有償ボランティア 引きこもり真心の会」の鈴木会長の真心と強い心に、氷のように固く閉ざした陽一の心も春の日差しに溶ける雪のように、少しずつではあったけれど昔の明るく知的な姿に戻ることができた。

鈴木会長の指導のもと、行政主催の「ひきこもり支援と対策」での講演者となり、陽一は自ら体験した辛く悲しい想いを語り、そこから這い上がれた経緯も涙と共に話した。聴衆の間から、すすり泣く声が響いた。

その後、「引きこもり支援」関連の多くの地方自治体やNPO法人等から講師に招かれ、県内はもとより関東の全ての都県を会長と共に回った。陽一は、大きく成長した。家を空ける機会も増えた。

陽一君が東京の複数のNPO法人などへの連日の講演で家を空けた夕方、大川さんは「一人で寂しい」と私の家にやって来た。大川さんが来ることを知らなかった私は、『高齢者のための季節の献立集』秋の献立集1週5日目の献立を作ろうと考えていた。献立の内容は「秋鮭のホイル焼き」と「ほうれん草のお浸し」だった。

レシピを見ると鮭一切れで2人前だった。ちょうど良かったと思った。ただホイルで包むのは二人分だった。私は玉ねぎを薄切りにし、ニンジンを千切りにし、そのあとシメジをほぐした。傍で、大川さんは見ていた。嬉しそうだった。

多少大川さんからアドバイスは貰ったけれど、殆ど私の実力だと思う。今の私は料理が得意だ。大川さんは、私が油を引いたフライパンに蓋をして蒸し始めると、ほうれん草のお浸しを作り始めた。

蒸しあがったホイルを開いて、私は半分ずつ皿に分けた。ホイルが付いた方は大川さんにあげた。バターの香りがとても食欲をそそった。大川さんが「ほうれん草のお浸し」をよそってくれた。いつも感じることだけれど、大川さんと二人だけの食事は格別だった。

夕食が済むと私は籠の中から梨を取り出し、皮をむいた。大川さんは食器を片付けている。二人で食後の果物、つまり梨を食べながら私は言った。

「大川さん、最近の陽一君の活躍はすごいですね。昨日の全国版の新聞に、陽一君の講演の姿が載っていましたよ。記者は、すごく感動したと書いていました。それを読んで私は涙を止めることができませんでした」

ソファーの横のテレビ台の引き出しからその新聞を取り出し、記事の部分を広げながら大川さんに渡した。その記事を読み始めると大川さんは、また泣き出した。

この時もまだ、私は大川さんを姓で呼んでいた。名前では照れがあり呼べなかった。

いつだったか正確な時期は忘れたが、なのはな会が始まった頃、私は夕食の献立の作り方が分からず大川さんに相談した。大川さんは私の家に来てくれて教えてくれた。その時、偶然な出来事から私と大川さんは抱き合った。それから間もない日に私の方から大川さんを抱きしめ唇を合わせたが、「陽一が独り立ちできるまで私だけが幸せになることは許されない」と大川さんは決意した。

あれから1年後には陽一君は大きく変貌した。これ以上望みようがないと思えるほど、大きく成長した。大川さんは、私が渡した陽一君が書かれた記事を読み終えると、静かに言った。

「これでやっと陽一も独り立ち出来たようです。小松さん、ありがとうございました」

そう言うと、大川さんは少し離れた位置から私の横に座り直して、私の胸に顔をうずめた。大川さんの表情は晴れやかだった。私は大川さんを抱きしめた。

私は大川さんから体を外し、部屋の明かりを消した。カーテンの隙間から月の光が差し込んでは来たけれど、静寂のなかに聞こえるのは二人の息遣いだけだった。翌日から、私は初めて「美智子さん」と名を呼んだ。

≪ 結 び ≫

私は、また明日から、「パソコン勉強会」「なのはな会」「なのはな歩く会」に参加することで、私の人生の最後を更に輝きのあるものとすることが出来るだろう。

妻の明子と大川さん、そして会の仲間の方々、最後に「有償ボランティア 引きこもり真心の会」の会長に感謝することを、生きている限り私は忘れることはない。

原料香月の作詞の小部屋 お問い合わせ


ブログカテゴリー

月別アーカイブ

ページトップへ