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創作の小部屋「音頭大橋物語」

2022年12月22日

 創作の小部屋「音頭大橋物語」

今年も余すところ僅かとなりました。毎年この時期に思うことですが、本当に一年は短いものです。皆様方には、本年もお世話になりました。有難うございました。来る年も幸多い年となりますよう、祈念いたしております。

本日は、もう3年ぐらい前に書いた「音頭大橋物語」ですが、「新音頭大橋物語」として大きく書き改めました。ぜひ最後までご覧頂けましたら幸甚です。

私は、まだ「音頭大橋」を訪れたことはありませんが、いつか自分の目でこの美しさを確かめたいと思います。音頭の瀬戸公園も訪れたいと思っています。アイキャッチ画像は、音頭の瀬戸公園から眺めた第二音頭大橋と瀬戸内海です。

2番目の画像は、ループ状の音頭大橋です。

次は音頭大橋の下を航行する船の画像です。

最後は第二音頭大橋と渡し舟です。

  音頭大橋物語

私は、昨年古希を迎えた岡田幸子(さちこ)と申します。旧姓を平岡と言います。1952年生まれです。17歳の時に父が亡くなり、肉親は2歳上の兄だけになりました。今日は、その兄の話しをさせて頂こうと思います。

悲しいことに私は、母と暮らした覚えがありません。当然、母との思い出はありません。父からは、私が2歳の時に病で亡くなったと聞いていました。

私と兄が育ったのは、広島県呉市の警固屋(けごや)というところです。家は小学校の近くのアパートでした。

父は私が生まれる前から、近くの製鉄所で働いていたと思います。幼い頃から私はいつも兄と遊んでいたように記憶しています。父は仕事の休みの時は、いつも疲れたと言って朝から酒を飲んでいました。父と、どこかに出かけたとかの思い出はありません。

私は呉の街が大好きです。すぐ近くには海があります。私は、この瀬戸内海の海が大好きでした。

私が小学生の高学年になると、兄は私を良く三峰山に連れて行ってくれました。兄が大きなお結びを作ってくれて、鰯のいりこと水筒を持って出かけました。この山の中腹から見る音戸の瀬戸には、無数の船が行き交い、航跡波が陽に反射して銀色に輝いておりました。

また、遠くを見渡すと瀬戸内海の緑の島々が、空の青と海の青との間に無数に浮かんで、それはそれは美しいものでした。

三峰山のことばかりではありません。兄から受けた優しさは数え切れません。私にとっての兄は、母親の役目も果たしてくれました。

話しが前後しますが、私が小学1年生の時の思い出です。当時は給食などなく、弁当持参でした。父は早朝勤務で、兄が弁当を作ってくれました。狭い台所には卵が2個置いてあり、兄は卵焼きを作ってくれました。私が卵の白身の部分が嫌いなのを知っていて、兄は黄身のところだけを私の弁当箱に入れてくれました。

当然、兄の弁当箱には白身の部分しか入っていません。兄は、「残さず食べろ!」と言いながら、新聞紙に弁当箱を包んでくれました。時々入れてくれる梅干しのせいか、私の弁当箱のフタが少しへこんでいました。

小学5年の時のことです。私は風邪を引いてしまい、兄のすすめで学校を休みました。その時中学1年だった兄も一緒に学校を休んでくれました。兄から体温計を渡され測ってみると、39度1分もありました。家には冷蔵庫がなく、兄は魚屋さんに行き、氷を買って来てくれました。氷嚢がとても冷たかったのを覚えています。

おかゆと梅干と白湯を枕元に運んでくれて、「少しでもいいから食べろ!」と私の傍でずっと見守ってくれました。お蔭で2日だけ休んで、また学校に行くことが出来ました。

この兄がいてくれたお蔭で、私は寂しいと思ったことはありません。本当に、母親のいない寂しさなど感じたことはありません。

私は中学校を卒業すると、海産物の会社に就職しました。兄は、父と同じ系列の会社で工員として既に働いておりました。その父は、私が17才の時に肝臓を患い亡くなりました。

父が入院して1ヶ月くらい経った頃でしょうか、父の容態が良くないとの知らせが病院から入りました。急いで駆けつけた私たちに兄妹に、父はやっと聞き取れるくらいの小さな声で言いました。

「兄妹、仲良くしろ!良い父親でなくてすまなかった」

そう言うと父は潤んだ目を閉じました。その晩のうちです。父は息を引き取りました。私が17才、兄が19才、父はまだ48才の若さでした。

葬儀は父の会社の方が取り仕切ってくださいました。費用は、兄の貯金で賄いました。父が亡くなったことはもちろん悲しかったのですが、私は兄を偉い人だと心から思いました。

私は二十歳を数年過ぎた頃に、縁があり広島市に嫁ぎました。結婚式の費用も兄が虎の子の財産をはたいてくれ、人並みの結婚式を挙げることができました。

結婚式は、広島市の塩屋神社近くにある小さなホテルで行いました。私の身内は兄一人だけです。神前結婚式でしたが、お互いの親戚の紹介の時、兄はいかにも場慣れしていないという感じで「身内は兄の私ひとりだけです。平岡正一と申します。宜しくお願いいたします」と俯きながら小さな声で言いました。

宴も終わりに差し掛かった頃、司会者が「新婦のお兄さん、ひと言、新婦の幸子さんにお祝いの言葉を賜りたいと思いますが」と言ってマイクを兄に渡しました。兄は立ち上がりましたが、急だったせいか途端に真っ赤な顔をし、やはり俯いてしまいました。どれくらいそのままだったでしょうか?私も新郎の博さんも心配になって、兄を見つめました。いや、その場にいた全ての人の視線が兄に注がれていました。

それから兄は何かを決心したかのように顔を上げ、そして大きな声で言いました。

「幸子、今日はおめでとう、本当におめでとう!俺たち兄妹には誰も身内はいないけど、幸子は頑張った。強い妹だった。今日まで、ありがとう!博さん、幸子を宜しくお願いします!」

そう言うと兄は大粒の涙を流しました。その泣き声は、廊下の方まで聞こえたと、博さんと結婚費用のお支払いにホテルに行った時、係の方が申しておりました。

それから1年が過ぎた頃、私は子どもを授かりました。兄は「少ないけれど、子どものために使って欲しい」と、毎月のようにお金を送ってくれました。もちろんたいした金額ではありませんでしたが、兄の優しさに胸が一杯になりました。幸い私の夫も真面目に働く人でしたので、何とか生活はして行けたのですが、兄の善意を受け入れ、将来の子ども達の学費にと貯金させて頂きました。

昭和36年、本土の呉と倉橋島を結ぶ「音戸大橋」が完成しました。大型船の航行のため橋桁を高くする必要から設計されたループ状の橋が、当時は珍しく多くの見物客で賑わいました。私は当時9歳でした。工事中からずっと兄と見ていましたが嬉しかった記憶があります。とてもきれいな朱色でした。

経済の成長と共に「音頭大橋」は大変混雑をするようになり、平成25年に「第二音頭大橋」が完成しました。この新しい橋も朱色で、木々の緑と海の青さに映えるとても美しい橋でした。私は嫁ぎ先の広島市からわざわざ訪れました。兄は残念ながら、「第二音頭大橋」を見ることもなく、その3年前に亡くなりました

兄は生涯結婚することもなく、父のように肝臓を悪くして60歳で亡くなりました。兄の遺品の整理のため、住んでいたアパートを夫の博さんと訪れました。部屋には小さな父の仏壇がありました。私と博さんは父の位牌にお線香を上げ、ふと仏壇の下の引き出しに目が行きました。引き出しを開けてみると封筒が入っていました。封筒の中には貯金通帳と印鑑が、そして鉛筆で書かれたメモ用紙のような小さな紙が入っていました。

「幸子へ このお金は葬式用に使って欲しい。もし残ったならばお前たちの子どものために使って欲しい」と書かれておりました。既に葬儀は済んでおりましたが、葬儀のお金を差し引いても相当な額が残る金額でした。博さんと私は感激して涙を流しました。

しばらくして、また部屋の片付けを始めました。少ししてから、表紙が黒ずんで一部破れた小さな日記を博さんが見つけました。受け取ってページを開き、あるページを読んだ私は、よろめく様にその場に座り込んでしまいました。

「昭和57年10月11日 幸子は知らない方がいいし、この先も話すつもりはない。もし知れば、母を捜すだろうし、母を憎むことになるからだ。俺たち兄妹を置いて、見知らぬ男と逃げた母親。許せない!

中学を卒業して働き始めた頃に、初めてその話を親父から聞かされた。幼い幸子が可愛そうでならなかった。まだ世間のイロハも知らない俺だったが、その時に誓った。これから、幸子は俺が守る。俺はどうでもいい。幸子の幸せだけを考えて生きる。だから、幸子許して欲しい。母のことは、病気で死んだ、それを信じて、母を忘れて生きて欲しい」

前にもお話しさせて頂きましたが、私は母親がいなくても幸せでした。その代わりを全て兄が担ってくれましたから。兄にも、私が嫁いだ後いろいろ辛いことがあったのでしょう。私を置いて逝ってしまいました。

兄が亡くなって数年経ちました。今日は、主人と孫の陽菜の3人で「音戸の瀬戸公園」にやって来ました。緑の木々や色とりどりのツツジの花の向こう側に、朱色のあの日と変わらない「音頭大橋」がその美しい姿を誇っていました。

遠くを見渡すと瀬戸内海の緑の島々が、空の青と海の青との間に無数に浮かんで、その中を沢山の船が行き交い、航跡波が何本も何本も春の陽射しに輝いていました。その姿は、昔、兄と三峰山で眺めたあの日と少しも変わりはありませんでした。               おわり

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