小鳥

ブログ

俺の港だ 鰺ヶ沢

2020年02月23日

 俺の港だ 鰺ヶ沢

この作詞は、宇都宮の山大紅葉さまから「海の漁師の歌」の作詞をして欲しいということで作らせて頂きました。私は十和田湖には行ったことがありますが、鰺ヶ沢町には行ったことがなく何の知識もありませんでした。また作詞も20数曲分作りましたが、漁師の方の作詞は初めてでした。

鰺ヶ沢町の地図を見たり、また鰺ヶ沢町のHPや漁協組合様のHPなどから知識を得ました。また、ネットではどうしても分からないことは、鰺ヶ沢漁協様にお電話をしまして教えて頂きました。電話口に出られた方は、とても丁寧な対応をして下さり、私の疑問は解けました。心から感謝致しております。

この作詞をする前に、小さな物語を作りました。(画像は鯵ヶ沢漁港です)

   鰺ヶ沢漁師物語

鰺ヶ沢漁港で生きる幸夫は、もうすっかり白髪が増え頭頂部は透けている。漁に行くときは、息子の拓海と二人で力を合わせて網を引く。

この拓海は、20数年前に時化で亡くなった幼馴染の友人の子どもだった。

幸夫は漁師を辞めようかと真剣に考えたが、友人のためにも自分の生きる道はやはり「漁師」しかないと覚悟を決めた。

友人には妻の香里と、まだ3歳の一人息子の拓海が遺された。大漁の折には、獲れたばかりの魚やおもちゃなどを届けた。何度かそうしているうちに、幼い拓海になつかれるようになった。漁の休みの日には、遊園地などにも3人で出かけるようにもなった。別れ際、拓海はいつも大泣きをした。

幸夫は、ある日届け物をした日に、以前から覚悟をしていたことを香里に伝えた。

「拓海ちゃんの親父になりたい!」

香里は、一瞬驚いたような表情をしたが、下を向いて返事はしなかった。

数日の後、返事を聴きに鯛を持って訪れると、拓海が抱きついて来た。拓海を抱き上げながら香里を見ると、明らかに一つの覚悟をした女の晴れやかな表情がみてとれた。

幸夫は、拓海を自分の子として真心を持って育てることを約束した。香里は、涙を流した。

いつしか時は過ぎ、拓海は水産高校へと進学した。その頃、幸夫は鰺ヶ沢漁協での主に定置網漁を仲間としていたが、拓海の卒業を見据えて、独立の準備を始めた。

拓海には、まだ真実を話していない。二十歳になってから話すつもりだ。出来ることなら、その日は来ない方がいい。拓海の反応が怖いからだ。今まで、ずっと実の子どもと思い育てて来た。拓海も、実の親だと思っている。人情豊かなこの鰺ヶ沢の人間は、誰も拓海親子を温かく見守っている。誰もそんな話は酒を飲んだ時でも口にはしない。

仏壇の写真は、兄の若かった時の写真と言ってある。物事には、真実を話した方が良い場合と、そうでない場合とがある。香里はいつか話して欲しいと願っている。

拓海も晴れて水産高校を卒業した。本当は幸夫の漁師仲間へ預け、数年間は修行をさせるつもりだった。しかし、拓海は親父に教わりたいと言った。幸夫は貯金と借金とで自分の船を持った。

こうして親子の漁師が誕生した。

   俺の港だ 鰺ヶ沢

1番   幼い頃から 親父の背中           

     漁で見せられ 育った俺だ     

     親父受け継ぐ この漁船      

     きっと親父を 追い越して     

     今に建てて見せるよ 大御殿    

     俺の夢だぜ 鰺ヶ沢        

 

2番   お袋流した 涙の訳は         

     俺のお父うは 嵐で死んだ     

     そんな言葉に 笑ったぜ      

     俺の親父は  この親父       

     今日はやけに潮花  頬を打つ   

     俺は漁師だ 鰺ヶ沢        

 

3番   吐く息凍て付く 真冬の津軽    

     網を引く手が 凍えてとまる    

     親父厳しい 怒鳴り声       

     意地と気合で引き寄せる      

     荒れる波に雪舞う 日本海     

     俺の海だぜ 鰺ヶ沢        

     アァ~ 俺の港だ(ソレ) 鰺ヶ沢 

 

初めて作った漁師の方の作詞ですが、鰺ヶ沢漁協の方には心から感謝致しております。一人では、何もできないのです。別な言い方をすれば、この曲は「鰺ヶ沢町」を愛する人の気持ちがひとつになって完成した曲と言えます。作曲・編曲の筧先生も素晴らしい作品に仕上げて下さいました。皆さま、ありがとうございました。最も感謝すべきは、山大さんのご提案があったことです。

原料香月の作詞の小部屋 お問い合わせ


ブログカテゴリー

月別アーカイブ

ページトップへ