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課題テーマに挑戦「金沢市」第13回

2020年05月15日

 課題テーマに挑戦「金沢市」第13回

課題テーマに挑戦「金沢市」第13回は、『辰巳用水』創造にまつわるお話をアップさせて頂きます。この内容は、『加賀を創造した人々 第1章』から、ほぼ内容を変えずにそのまま写させて頂いております。

  辰巳用水の才「天才的技術者・板屋兵四郎」

今も石川門に百万石の偉容を忍ばせる金沢城。そして隣接する日本三大名園・兼六園。金沢を代表するこれらの史跡は、いずれも市街が見渡せる高台の上にある。


 この巨大な城を囲っていた堀の水と、霞ヶ池、瓢[ひさご]池といった兼六園を彩る豊かな水がどこから来ているのか、正確に知る人は多くはない。現在も、一日に1,400トンもの水をこの兼六園や金沢市内に送り続けているのは、江戸初期に造られた延長十二キロメートルの用水。実に、今から約370年前の手堀の水路なのである。

この水路こそが、日本四大用水のひとつ、辰巳用水である。

城の辰巳[たつみ](東南)の方角、犀川上流に水源を求め、約四キロメートルのトンネルで導水、開水路を経て兼六園の霞ヶ池に貯水する。さらに、驚くべきことに、そこから地下の導水管を使ってサイフォンの原理により、白鳥堀から内堀へと上げ、さらに高い位置にある城中二の丸まで揚水していた。 1632(寛永九)年、前田家三代藩主利常が小松の町人板屋兵四郎に設計させ、造らせたという。
 藩の表向きの目的は防火用水であったらしいが、城の防御強化、そして辰巳用水を活用した積極的な新田開発も意図されていた。明治初期の記録では、この用水を使用する水田の面積は100ヘクタールを超えている。現在でも極めて高い測量技術が要求される導水トンネル。辰巳用水は軟弱地盤を避け屈曲しているが、その勾配は正確無比。必要な水量や流速を得るため水路構造まで、細やかな計算、工夫が随所に施されている。
 何よりも、現在もなお現役の水路であることが、その技術の計りがたい水準の高さを物語っていよう。
 また、水圧を利用して水を高い位置まで引き上げる伏越[ふせごし](逆サイフォン)の手法も、大掛かりなものとしては日本初であろう。

板屋兵四郎は、この天才的偉業をわずか一年で成し遂げたと記録にある。当時のサイフォンは木管であったが、後に石管に代えられ、今も兼六園にある日本最古の噴水を生み出している。いずれにせよ、この辰巳用水で培われた様々な農業土木技術が、各地の用水事業に与えた影響は絶大であったに相違ない。小松の町人板屋兵四郎には謎も多い。藩による毒殺説もある。
 実は加賀には、もう一人、兵四郎がいる。能登の塩田に携わった小代官・下村兵四郎。塩田の造成には、水平面を決める緻密な測量技術が要求される。兵四郎はその技術を買われて、1625年、輪島の尾山用水、春日用水を築いたとある。また、能登名所・白米[しろよね]千枚田の用水にも関わっている。さらに、辰巳用水の五年後には、富山県の常願寺川近くの用水工事も行っている。時代も同じ。おそらく二人は同一人物であろう。あるいは、兵四郎一門ともいうべき高度な技術者集団がいたのかも知れない。

古都金沢。その町並みが情緒に溢れているのは、武家屋敷や茶屋街とともに、市内を縦横に流れている美しい水路群であろう。この辰巳用水をはじめ、大野庄、鞍月[くらつき]、長坂といった主要水路。さらに泉、中村高畠[たかばたけ]、大豆田[まめだ]、樋俣[ひまた]、中島、小橋、三社[さんじゃ]、木曳[きびき]川、柳沢、河原市[かわらいち]等々、市内を網の目のように結ぶ大小様々な用水。これらはいずれも水田開発のために築かれた農業用水路であった。そして、それらの水路の建設には、富永佐太郎、後藤太兵衛、中橋久佐衛門といった兵四郎に劣らぬ技術者、そして幾万という名もなき農民が命を注いできたのである。
 当たり前のことながら、百万石の城下町は、百万石の農地が育てたことを忘れてはなるまい。

【あとがき】この内容は金沢市について調べているとき、偶然目に留まったものです。私はこの「加賀を創造した人々 第1章」を読み、とても感動してしまいました。もし、この「辰巳用水」について知らない方がおられるかもと考えアップ致しました。なお、画像は金沢観光協会さま「金沢旅物語」及びウィキペディアさまから拝借いたしました。

出典:一般社団法人 農業農村整備情報総合センターホームページ『水土の礎』

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